ジョン・パスモア『分析哲学を知るための 哲学の小さな学校』/玄侑宗久『阿修羅』/佐藤優『功利主義者の読書術』

休日。晴。
ジョン・パスモア『分析哲学を知るための 哲学の小さな学校』読了。中身は題名どおりで、読みやすい。もっとも、分析哲学は自分の哲学ではないし、端的に無知なので、本書の評価はできない。個人的には分析哲学も、言語哲学という観点から興味はある。しかし、自分は言語にあっては、「喩」というものが決定的に重要だと思うのだが、本書を読んでも、分析哲学に「喩」の解明はないようである。本当にそうなのか? 自分は知らない。とにかく、文において真理とは何かとか、そうしたことにはあまり興味がもてないのだ。とは云え、これからも分析哲学を時折学んでいくのは、間違いないとは思う。
 それから蛇足だが、分析哲学者は、もっと物理や数学をきちんと学んだ方がいいと思う。それを知らないがために、無用な議論をしていることが稀ではない。分析哲学をやろうというような学生は優秀なのだから、理系の学部学生くらいの知識は要求していいのではないか。

分析哲学を知るための哲学の小さな学校 (ちくま学芸文庫)

分析哲学を知るための哲学の小さな学校 (ちくま学芸文庫)

玄侑宗久『阿修羅』読了。玄侑さんの小説は特異なテイストのものが多くて、小説の面白さ以上に、真実の面白さ(?)とでも云うような感じを与えられるものが多い。しかし、いわゆる「多重人格(解離性同一性障害)」を扱った本書は、小説の面白さも存分に与えてくれる傑作だ。色々あらわれる人格の描き分けがくっきりしているし、医師(あるいはこの人が主人公なのかも知れない)の方も、弱いところも持った人間として描かれている。そして、多重人格が統合されていく緊迫感。その過程で人格が消えていくのが、それもまた喪の作業を必要とする、一人の人間の死として扱われているのに驚かされる。けれど、考えてみれば、それが当然なのかも知れない。ただ、本書がそう云っているわけではない、というかその逆なのだが、唯一の「本当の自分」があるということになると、それはそれで問題であるような気がする。もっともこうした考え方は、責任を負う主体として、自我の確立を重要視する西洋では、受け入れられないものであろう。どちらかというと日本では多重人格は少ないようだが、本書のような存在形態ならば、ありうるようにも思われる。――いや、素人が分を弁えぬことを書いてしまった。いずれにせよ、本書は傑作である。
阿修羅 (講談社文庫)

阿修羅 (講談社文庫)

佐藤優功利主義者の読書術』読了。つまるところ僕は、佐藤優氏の精神の何とも言えない豊かさに惹かれるのだと思う。もちろん本書の内容は大切だが、そんなことはどうでもいいような気もする。僕は稲葉振一郎氏がブログで佐藤氏を簡単に一刀両断していたことが忘れられないが、たぶん稲葉氏は、まるで掌篇小説のような本書の文庫版あとがきに、感動されるような人ではないだろう。そして僕は、そのような甘ちゃんなのである。
功利主義者の読書術 (新潮文庫)

功利主義者の読書術 (新潮文庫)