『小熊秀雄詩集』

晴。
カルコスとイオン。
小熊秀雄詩集』読了。面白い。こんな八方破れの詩人がいたとは。自分が持っているのは第七刷だから、結構読まれているのだな。

小熊秀雄詩集 (岩波文庫 緑 99-1)

小熊秀雄詩集 (岩波文庫 緑 99-1)


いま読書家からほぼ例外なく絶賛される文章の書き手がいるのだが、この人の文章を読んでいると、或る種の諦念を覚えずにはいない。つくづく、自分は「文章」というものがたぶんわかっていないのだと思う。かの人の文章は、嫌いではない。ただ、あまりにも技巧的に思えて仕方がないのだ。何でもないことを、どうでもいいことを、見事な芸の力だけで読ませてしまう。こんな評は理不尽かもしれないが、「巧すぎる」のである。そして、「文学的」にすぎる。これは、日本語の散文が、まだ未熟な証拠ではないかと思われてしまうのだ。どうしようもない自分の文章は棚に上げてなので、説得力がないことは承知であるが。
 そう、いまの文学好きは、文学は語れても、同じ文体で、政治や科学については語れない人が多い。これは果して、健全な傾向なのだろうか? まだ近い過去ですら、そんなことはなかったような気がする。いや、自分だって、政治に関してはさほど語りたくもないのだけれど。というか、単に無知である。大口は叩けないか。
 よく考えてみれば、逆のことも云えるか。つまり、いま政治や経済を語る人は、多くは文学を読んでいない。文学も哲学も読まないで、政治や経済が語られている。何でそんなもの読まないといけないの?という感じだろうな。しかしそういう手合いの多くは、どうしても底が浅くなってしまうのだが、って自戒。

このところ車を運転していると、後続の車で車間距離を取らず、ぴったり付いて煽ってくるバカが本当に増えた。半分は若い女性で、軽なんかで煽ってくる。危なくて仕方がない。急ブレーキを踏んだら、確実に追突される。なので、わざとさらにゆっくり走って、抜いていってもらうのが一番いいことがわかった。たいてい信号で追いつくことが多いのだが。そっちが事故を起こすのは勝手だが、他人まで巻き込むな。