日曜日。晴。あら、夕方から雪だ。これは積もりそう。
うどん「恵那」にて昼食。寒いので、あつあつの天麩羅蕎麦が、これはもう美味しかった。
カルコス。「すばる」一月号の、中沢新一の新連載を立ち読みする(雑誌を買おうか迷ったが、連載が終ればすぐに単行本化されるのを期待して、踏み止まる)。本格的なグローバル資本主義批判がなされるようだ。現代経済学批判にもなりそうである。また賢い人達からは馬鹿にされるだろうなというのはわかってしまうが、自分は読む。自分も最近、現代経済学の切れ味にますます驚くとともに、読めば読むほど嫌になってくる部分もあるので、興味を持たざるを得ないのだ。
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鶴見俊輔『身ぶりとしての抵抗』読了。ダラダラとしたダサい文章で、あまり自分の好みではない。しかし、このような文体でしか語れない事実というものがあることを、本書は教えてくれる。実際、本書には自分の持っていないものがたくさんある。それがまた、大切なものなのだ。気になることが一つあるとすれば、本書はあんまり真面目すぎるような気がする。高僧には真面目なのか冗談なのか、言っていることがよくわからない人がいるが、著者もそこまでいくと良いのではないか。正直で真摯なだけ、というのは、最終的に無理がくる。もっとも多分、著者はそんなことはとっくにご存知だろうという気もする。だから、今でも長生きされているのかも知れない。
身ぶりとしての抵抗 ---鶴見俊輔コレクション2 (河出文庫)
- 作者: 鶴見俊輔,黒川創
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2012/10/05
- メディア: 文庫
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著者はそういう言葉は使っていないが、著者は、日本人は「リアル・ポリティクス」が出来ていない、と見ているようだ。そして、著者流の「リアル・ポリティクス」を講義するわけであるが、まったくナイーヴなことを云わせてもらえば、「リアル・ポリティクス」というのは、膨大な量の煩悩によって複雑に織り成された、ひどく錯綜する超難解なパズルそのものなのだということが、よくわかった。「ゲーム理論」とはよく言ったものであり、賢い人向けの遊びである(まあその結果で、たくさんの人が死んだり、さらには世界が滅びたりすることもあり得るようなものなのだが)。そしてそのパズルには、誰(あるいはどの国)にとっても正しい(あるいは有利な)ような解は、必ずしも存在しない(ゲーム理論のナッシュ均衡などは、特別な条件下でのみ証明される、数学的な理想化である)。確かに「リアル・ポリティクス」、面白そうではあるし、修行にも大いになりそうだが、ちょっと自分には面倒臭いというのも本音だ。優秀な人がやったらいいと思う。
いずれにせよ、本書を正確に判断する能力は、自分にはない。もちろん著者はわかっているに決っているが、核の抑止力などというのは、いかにも古臭い発想のようにも見えるけれど*1。まあ本書は一応目は通したので、しばらくは発酵させようかと思う。それから、他に手軽な新書でもないだろうかね。
- 作者: ロナルドドーア,Ronald Dore
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/11/01
- メディア: 新書
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佐村河内守の室内楽アルバムを聴く。どう書くかとても迷うのだが、簡単に記しておこう。聴いていて、困惑の連続だった。どこかで聴いたような曲想の寄せ集めのように聞こえてしまうのだ。以下は遊びだが、例えば無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌではバッハ(これは作曲者は確信犯だろう)、ヴァイオリンのためのソナチネはシューマン、弦楽四重奏曲第一番ではリゲティ、第二番では後期ベートーヴェンやシューマンなどが思い出されて仕様がなかった。作曲者はいったいどこにいるのだろう、という感じである。曲はどれも美しいと云えないことはない。だから、自分に過去の音楽の「教養」がなく、真っさらな状態で聴いたとするなら、どう感じたかはわからない。もしかしたら感動していたかも知れない。しかし、既に自分は、そうした幸福な状態にはないのである。それは仕方がない。だから、このディスクを聴いて感動した方があっても、それを否定するつもりは毛頭ない、と、前作を聴いたときと同じ言葉を繰り返しておこうと思う。
蛇足。ちょっと思い出したのは、グレン・グールドのことである。グールドは周知の通り、作曲家にもなりたかったのに、そして作曲を何度も試みていたのに、結局傑作を生むことはできなかった。何を書いても、ブラームスになってしまうと。そうした曲は、すべて廃棄したとおぼしい。あれほどの音楽家であったのに、そういうこともあるのだ。
さらに蛇足。ライナーノーツを読むと、作曲者は音楽を通じて、「人間愛」と「祈り」を伝えたいのだという。それが事実だとすれば、表現主義的な印象が与えられるのもよくわかる。作曲者の音楽は、純音楽的な理法によって展開されない。そこのところが、一種の紋切型と冗長性が感じられてしまう原因になっているわけだ。自分などはそういう聴き方になってしまっているのだが、まあ、こうでない聴き方をしてもいいとは思う。ただ、作曲者は俗物の無理解に遭っているというようにも読めるライナーノーツの書き方は、勘弁して欲しい。作曲者は、「自分の音楽は生きている間には評価されないだろう」と「悲しく」語っているそうである。しかし、アマゾンのレヴューや売上ランキングを見てもわかるとおり、作曲者は充分に聴衆によって擁護されているというのが事実だろう。作曲者は、いったい誰の承認を得たいのか?
- アーティスト: 佐村河内守,大谷康子,藤井一興,大谷康子弦楽四重奏団,田尻順,青木篤子,西谷牧人
- 出版社/メーカー: 日本コロムビア
- 発売日: 2012/01/18
- メディア: CD
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一週間後は衆議院選挙であるが、好みとして政治のことはあまり書こうとは思わない。ただ、あまりにもと思うこともあるので、少しだけノートしておく。自分はもちろん、政策というものは大切だと思うし、政策を聞いて投票するというのは、当然のことではあるだろう。しかし、マスコミの報道を見ていると、結局口で言うだけならいくらでも言えるというのも、またそうではないだろうか。これは他人に勧めるわけではないが、個人的には、政策よりも人物に興味がある。しかし、今のマスコミの報道で、正確な人物評価をするというのは、あまりにもむずかしいことだ。偏向報道以外の報道がほとんどないからである。新聞の社説などは、読む人がほとんどいないから実害は少ないのが救いだが、ひどいものである。それから、朝日新聞なら「天声人語」などのコラムも、偉そうな上にまったくひどい。(文章がいいとか云って「天声人語」を読む奴の気が知れない。これは大衆操作メディアの典型である。)世論調査も、さすがに数値までは捏造していないと思いたいが、数値などは質問の仕方で一〇%や二〇%くらい簡単に変ってしまうから、事実上捏造と同じである。それに、世論調査で質問されて、極短時間で適当にいい加減な回答をしていない奴がどれくらいいいるか。(〇〇はどう思いますか? そう思う。まあそう思う。あまりそう思わない。そう思わない。さあ、選んで下さい、と云われたってねえ。)正直言って、マスコミの報道だけで判断するのは、よほど背後が見抜ける人物でないと無理だ。むずかしいものである。