スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯(上)』/松尾匡『新しい左翼入門』

晴。
スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯(上)』読了。アンリ・ブリュラールとは(多数の偽名をもっている)スタンダールの本名で、本書は一種の自伝である。但し、年代順にきちっと書かれているわけではなく、資料にも当っていなくて、興味の趣くまま、即興的に書かれているという印象だ。個人的な話だが、本書の価値というもの自体は今ひとつ決めかねているのだけれども、読んでいて、爆発的な精神的化学反応を感じた。どういうことかよくわからない。この素っ気ない文体のせいなのか。『赤と黒』や『パルムの僧院』では、そんなことは体験しなかったのだが。いずれにせよ、スタンダールは情に溺れた書き方はしない。本書に一箇所ラクロの名が言及されるところがあるが、あの『危険な関係』とスタンダールは、感情を(無機的なまでに)正確に描くという点、確かに似ているところがある。

松尾匡『新しい左翼入門』読了。著者の云うとおり、本書の「理論」が適用されるのは、必ずしも左翼運動だけではない。右翼にだって当て嵌るのだが、取り敢えず本書は左翼を題材にしているので、左翼に限って話す。著者は日本の左翼運動を、「嘉顕」型と「銑次」型に分けて整理する(この奇妙なネーミングの由来は省略する)。前者は理論優先で、上から目線で運動を指導する。後者は大衆の自発的な運動の中から、プラグマティックに運動を進めていく。こういうと、文句なく後者がよさそうにも思えるが、実際に左翼が政権を握ったソ連などでは、もちろん前者のやり方でやったわけだし、後者にも、著者が「他集団のことを配慮に入れず、外部に害となる集団エゴ行動をとったり、伝統的因習に無反省でメンバーを抑圧したり、小ボスによる私物化が発声したりする」と指摘するような、問題がある(例えば連合赤軍)。左翼運動の対立を分析すると、常にこの二類型が抽出され、その構図が反復されるというのが、著者の理論である。
 このように本書は明快なので、左翼の歴史に無知な自分にもわかりやすかったのだが、本当にこんなにわかりやすくていいのかねとは思った。それから、省みるに、自分は左翼親和性なのかなと思っていたのだが、自分は「嘉顕」型でも「銑次」型でもないなとも思った。では何かというと、ただの貧乏な自営業者に過ぎない。左翼的な運動を立ち上げようとも思わないが、右翼には抵抗がある。さて何でしょう、というわけだ。世界を変えるには、本当にそうしたやり方しかないのであろうか? 自分で信じていることはあるが、特にここに記すべきとは思わない。正直言って、他人のことよりは、まず自分のことである。他人に説教を垂れるほどの人間ではない。「運動」というからには、群れなければいけないのだものな。
新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)

新しい左翼入門―相克の運動史は超えられるか (講談社現代新書)


クルーグマンへのインタヴューの文字起こし(参照)。従来通り「日本に必要なのは…『物価上昇を伴う経済成長』だ」と述べているが、日本国債の債務残高については、信任を得ているのは「私ですら不思議だが、とにかく(信任が)維持されている」と言っている。やはり日本の国債が信任されているのは、クルーグマンでも不可解なのか。ここはリフレ派を鵜呑みにせず、ちょっと慎重になるべきかも。
スティグリッツへのインタヴューの文字起こし(参照)。日本は「円高を食い止め、製造業の輸出競争力を向上させることが重要」と。

自分は韓国も中国も、特に好きでも嫌いでもないが、自分たちの人気取りのために反日感情を煽る、韓国大統領や中国当局(少し前ではロシア大統領もありましたね)は恥を知れと云いたくなる。外交関係をそんな目的で悪化させるとは、幼稚だとしか言いようがない。また、それに釣られている韓国国民や中国国民の民度の低さも、目を覆いたくなるようなものだ。ネットウヨと同じようなことを云っていて我ながら情けないが、何とも意気消沈させられる事実である。だいたい、日本と中国、韓国との過去の問題でも、事実が大切だろう。こちらでも、事実は認める用意がある。感情論はもうウンザリだ。