マルクス『共産主義者宣言』

日曜日。曇。
ポリーニの弾くベートーヴェン、ピアノ・ソナタ第三十番を聴く。昔から聴き続けてきた録音だが、不思議なことに、二十代の頃に聴いていたのと同じような感動を覚える。あれから、好みも聴く音楽も随分変わってきたように思うのだが。ベートーヴェン最晩年の深い音楽を、若き天才が弾くということ。技術的、解釈的にはポリーニの完璧さがあるのは勿論だが、形容しがたい瑞々しさ、静謐さがあって、まるで鎌倉期の仏像でも見ているかのようだ。二十世紀というのは、猥雑極まりない時代であったが、こんな芸術を生んだ時代でもあることを思うと、不思議な気分に襲われる。他にも、グールド、アルゲリッチ、そして晩年の巨匠たち。それにしても七十年代のポリーニとは、感慨深い存在だ。八十年代以降になると、ポリーニの音楽は円熟に向かうようになるが、次第に瑞々しさを失っていく。それは解体の過程であり、最近のブラームスなどは、既に形骸にすぎない。

ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集

ベートーヴェン:後期ピアノ・ソナタ集

ウゴルスキの弾く「さすらい人」幻想曲を聴く。最深の緩徐楽章は、つい吉田秀和さんのことが思い出されて、何だか悲しくなってしまった…
シューマン:ダヴィット同盟舞曲/シューベルト:さすらい人幻想曲

シューマン:ダヴィット同盟舞曲/シューベルト:さすらい人幻想曲


図書館。堀江敏幸の書評集を借りる。カルコス。「すばる」七月号の、吉田秀和追悼記事を読む。堀江敏幸のはまあまあ。小澤征爾のはよかった。「モーツァルトはわかってもらえないことを、わかっていたと思う」と吉田さんは言っておられたそうである。父レオポルドに「売れる曲を書きなさい」と言われて、努力した形跡があるそうだ。ああ、ここでブラックホールに捉まりそうだと思いつつ、転調を止めるといったような。晩年の弦楽四重奏曲とかかな。

カール・マルクス共産主義者宣言』読了。従来の「共産党宣言」から題名を変えたことについては、柄谷行人の附論を参照のこと。柄谷によれば、『宣言』に書かれたことは、現在進行中であるという。それは驚くべきことに、確かにそうだ。けれども、それらの認識は、今では必ずしもマルクスから受け取る必要もないことだろう。しかしさらに驚くべきは、その文体的射程である。有り体に云えば、何とマルクスは頭がいいのか、ということだ。考えてみれば、日本の近代的知性の中には、マルクスを自らに「インストール」してきた者がたくさんいる。(柄谷行人もそうだ。)われわれも、これに続かねばならないだろう。マルクスを己に「インストール」せよ!
共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)

共産主義者宣言 (平凡社ライブラリー)