ジョージ・スタイナー『悲劇の死』

日曜日。雨。
図書館とカルコス。迷ったが、地元の本屋に折角置いてあるのだからと、ガブリエル・タルドの大著を買う。アガンベンは見送り。
ブラックホールに元気を吸い取られて、今ひとつ萎びている。何だか気の晴れないことが多い。スタイナーの『悲劇の死』を読んでいて、西欧文化しか認めないといった、彼の態度にも腐る。ラシーヌは飜訳不可能と云われても、フランス語もできないのに、どうしろというのか(というのは自分のことだが)。でもそれに対し、日本にだって近松があるとかも、あまり云いたくない。どうせ鼻も引っ掛けられないだろうからな。スタイナーには、ヨーロッパこそが異常なのだ、あれは人類ではない、という発想は薬にしたくともない。まあ、こんな素人の遠吠えをしていても仕方がないが、とりあえず外は雨だねえ。
 ということで、ジョージ・スタイナー『悲劇の死』読了。いろいろ感想は浮かんできたが、ここで記す価値のあるものではない。そもそも、本書から有益なものを受け取る(または、本書の価値を判断する)には、英独仏希羅の主要な悲劇を、それも原文で読んでいる必要があろう。自分は、本書に挙げられている悲劇の三分の一も読んでいないだろうし、読んだものもすべて翻訳だから、話にならない。
 で、ちょっと卑劣な揚げ足取りをやっておこう。本書三二一頁に、ビューヒナーの悲劇の話のついでに、こうある。「最もよく似た例はビューヒナーの同時代人である数学者ガロワの場合だ。二十歳あまりで馬鹿げた決闘のために死ぬ直前に、ガロワはトポロジーの基礎をすえた。古典的理論の限界をはるかに超えた彼の断片的な叙述や証明は、今でも現代数学の前衛が取り組む対象となっている。しかも、ガロワの表記したものはほとんど偶然に保存されたのだった。」まず、「ほとんど偶然に保存された」であるが、ガロワの決闘直前に書かれた原稿は、ちゃんと友人の手にわたって発表されている。また、偶然保存どころか、それ以前に書かれた論文の一部は、某有名数学者の不注意(かどうか、今では知るすべはない)によって、行方不明になってしまっているのだ。まあ、それはいい。それよりも、ガロワのやった大きな仕事は、トポロジーとは関係がない*1。スタイナーは、そこらあたりが理解できていないようである。ガロワの仕事は、代数方程式の可解の条件を、群(ガロワ群)の言葉で表現したところにある。まあ、スタイナーのはったりなのであるが、この驚くべき仕事は彼が三十代になったばかりの頃になされたものなので(まさしく巨人!)、若さ故の稚気を咎めるにも当たるまい。

悲劇の死 (ちくま学芸文庫)

悲劇の死 (ちくま学芸文庫)

*1:ちなみに、トポロジー位相空間論)は現代数学の基礎ではあるが、おおよそのところを知るだけなら、さほどむずかしくはない。ガロワの仕事はそれとは比べ物にならないほどむずかしいもので、ガロワ理論は確かに現代数学の中ではやさしい方だが、素人が片手間にやって通暁できるようなものでは到底ない。