イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』

休日。晴。
イタロ・カルヴィーノ『なぜ古典を読むのか』読了。須賀敦子訳。カルヴィーノが論じているもので、読んでいない古典が多いなと思う。アリオストを読んでいないし、ディドロを読んでいないし、パステルナークも読んでいない。偶々読んでいたものについては、堂々たる、洵に正統的な批評の数々で、感嘆すると同時に、正直言って意外な気もした。カルヴィーノの小説といえば、実験的手法と軽みの双方を併せもった、才気に富んだ印象を受けていたので、(ちなみに、カルヴィーノの小説は自分はとても好きだ、)社会的な観点を含む、これほど硬派な文学観をもっていたとは予想していなかったからである。じつに犀利な批評で、自分はとてもここまで古典を読み込んでいないと、脱帽である。この中では、とりわけボルヘスヘミングウェイを論じたものが印象に残った。レーモン・クノーなどは、『地下鉄のザジ』しか読んだことがなかったが、何とも多面な物書きということを本書に教えられ、さらに読んでみたくなった。(でも、クノーがどれくらい日本語で読めるのか知らないが。)須賀敦子の翻訳はもちろん見事。
 しかし、今の日本語の作家たちは、世界文学の古典に対してどのような緊張感をもって書いているのだろうか…

なぜ古典を読むのか (河出文庫)

なぜ古典を読むのか (河出文庫)


ブラームスのピアノ四重奏曲第二番を聴く。終楽章が聴きたくなったのだった。リヒテルボロディンSQの共演で、このディスクはこれまで何回聴いたかわからない。今回じっくり聴き直してみて、第二楽章がとりわけ深い音楽になっていることに気づいた。何となく、ピアノ協奏曲第一番の中間楽章が思い出されたくらい。そして、終楽章のすさまじい緊張感といったら! ボロディンSQはリヒテルにちっとも遠慮していない。お互いの技量を信じていなければ出来ない、丁々発止の受け答えになっている。
ブラームス : ピアノ四重奏曲 第2番イ長調

ブラームス : ピアノ四重奏曲 第2番イ長調