自由意志が存在しないことについて

極東ブログの最近のエントリーで、脳科学の進展により、自由意志は存在しないというのが定説になっていることを述べている。自分の知っている範囲でもそういうことらしいが、これは笑えるといえば笑える話だ。別に脳科学の知見は、その限りでは正しいと思う。脳が物質である以上、物質は決定論に従うだろう。もちろん、量子力学の確率的解釈が自由意志を生み出すのではという説は承知だが、これは確かめる方法は今のところない。実際、確率が出てくるのはいわゆる波動関数の収縮のときであり、このメカニズム自体がまだ物理的に解明されていないし、波動関数の時間的発展は完全に決定論的である。
 ただ、自分は、心というものは決定論だけに従うのではないとした方が、合理的な説明になる可能性が高いと思っている。もっともその理由は、現代の科学では説明できず、現時点ではオカルト的な話になってしまうので、ここには書かない。また、自分の中でもはっきりしていない部分もある。(心は普通の意味では「物質」でない部分があると思われるが、物理法則を遁れるかどうかはわからない。たぶん、何らかの形で物理法則に従うのではないかという気がする。これは完全に想像。)ただ、現代の科学ではまだできないが、将来はそういう科学ができてくるのではないかと予想している。さらに云っておけば、ベルクソンはそのあたりを大雑把に掴んでいる筈だ。
 また、極東ブログにもあるが、自由意志がなければ倫理は成り立たない。人生観というものも変ってしまうだろう。自分は(定義にもよるが)自由意志はあると思うけれど、「科学」が「ない」といい、それが受け入れられれば、これは決定的な変化になることは目に見えている。人間の、自業自得ということになりそうである。
 もっとも、自由意志はあるとしても、何を以て自由意志と呼ぶのかは、結構むずかしいようにも思う。前にもどこかで書いたが、その瞬間その瞬間に何でもデタラメなことができるのが自由意志なのだろうか。それとも自由意志とは、選択の自由なのか。あるいは、自分の信念に従うのが自由意志なのか。自分の妄想を述べれば、曖昧な言い方になるが、自由意志とはかなり微妙な働きをするものだと思われる。全体がつながった中で、その細部に働くものではないか。それは基本的に、一回性のものだと思われる。その点で、今の科学を超えてしまうのである。