晴。
渡辺京二『なぜいま人類史か』読了。著者にしては珍しい、講演集である。個人的に落ち込んでいる(つまらないことが原因である)ときに、こう卓越しかつ真面目な本だったので、何だか疲れてしまった。著者の本を読んでいると、日本人であるということについて思いを巡らさずにはおれないのだが、自分もダメな日本人なのだなとか何とか、つまらないところに嵌ってしまう。もうちょっと掘り下げてみると、日本人は文明史的にナイーヴなままがいいのか、西洋人並みになるのがいいのか、ということになる。著者は思想の自由な飛翔性を信じ、それは西欧的なものであって、その意味で特殊にして普遍であり、避けることはできないと言う。やはりそうなのか。能力の乏しいものでも、一歩一歩進んで行かなければならないのか。そうしたことは、かしこいものにとっては、貧乏くさいといえば貧乏くさい。足の引っ張り合いにもうんざりさせられる。
まあ、そんなのは下らないことだ。著者の射程の内には、人文知ばかりでなく、進化論や分子生物学などについての確かな判断や、太陽系の運命まで入っている。(「夕焼けニャンニャン」までにはさすがに驚いたが。)それがペダントリーなら御愛敬で済むが、そんなわけでなく、さらには歴史の実証研究に支えられた、人文知のイデオロギー解剖の切れ味といったらない。
しかし、もっとも感嘆させられ、また羨ましいとすら思ってしまうのは、生きるということを中核とした、著者の知の厚みである。これはもちろん、著者が営営孜孜として積み重ねてこられたものであるが、これなのだ、我々の、いや自分の問題は。この厚みが決定的に薄いのだ。概念操作が巧みであることは、確かに必要であるかもしれない。しかし、著者もいうとおり、結局は「信」である。それを支える厚みが、何をどう云っても、すべてなのだ。
- 作者: 渡辺京二
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2011/07/06
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