原発災害に関する山形浩生の記事に対する、ツイッター上における矢作俊彦の反論

原発災害に関する山形浩生の記事(参照)に対する、ツイッター上における矢作俊彦の反論(ここ以下):


「今なお、こういう詐術を振りまいて、電源原発権益の提灯持ちをしている、ある種の詐話師がいる。いかにも、このもっともらしい語り口が、東電のコマーシャルとシンクロする。善意の確信犯だけに、こういう意見をわれわれは正しく論破する必要があるのだ。」
「単純に言い切ってしまえば、国家にも電源企業にも、この人の言うような平衡感覚は存在していないということだ。彼らは『安い』『美味い』『早い』という、この国の戦後民主主義を支えたお題目を維持するためならどんな嘘もつく。ことさら電源原発権益がこの人が言うような清潔な選別をするわけがない。」
「もう一つ、どれほど安全な原発であっても、事故を起こしたとき、それはカタストロフィに直結することを我々は知った。飛行機を怖がる人は多いが、いったん事故を起こしても5、600人の犠牲者で終わる。しかし原発はいざ事故を起こせば地域が死滅する。それを誤魔化す連中に、この人は加担している。」
チェルノブイリの現実を、この人はまったく直視していない。あれは古い原発だと言う。しかし、原発が事故を起こせば、たとえどれほど新しい原発であろうと、最悪の場合直径数十キロの国土を死滅させ、故郷を殺し、市民の命を奪うのだ。目に見えない放射線物質で孫子を恫喝し続ける。そんなもの必要か。」
「必要だというなら、この人の意見に与すれば良い。ぼくは必要ではないと思う。原発に頼るなら、電気料金を倍払っても良い。一見正しく見えるが、これは人の命を欄外にしてコスト計算に汲々としている官僚や銀行員の発想だ。こういう意見は結局、電源原発権益と同じ、人間からもっとも遠い意見だと思う。」
「ああ。分かった。この人は1980年代のMITだ。つまり『虚栄の篝火』の中心人物だ。この人たちの頭にも心にも、人間も故郷も存在していない。所詮は金にならない感傷でしかない。困ったものだ。こういうもっともらしいことを言い散らかされても。」
「もう一つ付け加えておく。この人の意見から完全に抜け落ちているのは使用済み核燃料の問題だ。こんな短い行数で書くことはできない。諸氏、自分で調べてほしい。使用済み核燃料の処理はまったく宙に浮いている。そして、それはきわめて危険で厄介な物質だ。福島の一億トンの表土以上に。これは詐術だ。」
「念を押しておく。つまり彼ら国家と電源原発権益が、われわれ市民にしようとすることは、何十年も前の瀬戸内海長島で、熊本水俣で,はたまたあの成田でしたことと同じ、嘘しかつかないということだ。この人は知っているのか知らないのか、その辺りがいかにも楽天的、その楽天性が恣意的で、信値しない。」


山形浩生に愛がないことを、矢作俊彦は正確に理解している。


山形浩生の記事もコピペしておこう。

原発に対する我々の正しい姿勢とは?━━高度1万メートルからの眺め


これが反原発の立場なのか、原発推進の立場なのか、ぼくは分からないし、気にもしていない。でも、これがいちばん正しいことだと思うということを書いてみる。

まだ福島原発事故の後処理は当分続きそうだが、今後原発をどうするのかという議論(というより議論の不在)はいまだに続いている。でもそのほとんどは、中身を考えないお題目だけの原発反対か、単なる現状維持の原発賛成のみ。

ぼくは「原発反対」という人々が何に反対しているのか、よく分からない。ぼくは耐用年数のすぎたポンコツをだましだまし使い続けるのには反対だ。そしてそんな基本的な工学原則も徹底できない、今の愚かな関係者たち(いわゆる原子力村)にも反対だ(そしてたぶん後者のほうが大問題だ。これは老害の一種だから)。

でも、核分裂を使うエネルギー源がすべてダメとは思わない。福島の原子炉なんかよりはるかに安全性の高い原子炉はある。外部電源が切れても、冷却水がなくなっても何も起きず、自然に止まる設計の原子力エネルギー施設はすでにできている。それに反対といったって、今ある原発を明日から止めてつぶすことなんかできないのは、そろそろみんな分かってきただろう。何十年もかけて冷やしてつぶすことになる。それなら、それを安全なものに更新する手立てを考えるべきじゃないの?

ましてぼくがさっぱり理解できないのは、原発か経済成長か、といった得体の知れない二者択一を持ち出す連中だ。原発の見直しは今の文明の見直しだとかなんとか。別に原発がなくても経済成長はできるし、原発は今の文明と不可分な一部じゃない。たまたまエネルギー源として有利そうな面もあったから使われたというだけの話だ。

経済成長反対と口走る人の多くは、経済成長というのが携帯電話の買い換えとか車とかそんなぜいたくの話だと思ってる。そしてどっかの誰かが、経済成長を無理強いするためにいやがる人々を無理やり働かせているように思っている。でも経済成長というのは、今失業して生活に不安を抱いている人に職と安定を与えるものだ。自殺に追い込まれる人を減らし、医療を受けられない人に医療を与え、学校をよくして、高齢者の福祉を高めるものだ。それは人々の命を救う。それを否定するのは、人々に死ねということだ。

繰り返すけれど、原発がなくても経済成長はできる。つまり反原発のために経済成長を否定したり文明の見直しを求めたりする人は、反原発を口実に、まったく無意味に人が死んでもいい、苦しんでもいい、と主張していることになる。ぼくはそんな「反原発」に荷担したいとは思わない。

結局、老朽化した原発はきちんとつぶそう。それをまともな工学原則に基づいてきちんと主張できる体制を作ろう。そしてきちんとつぶし、それを安全性の高いものに更新するためにも新しい原子力の研究開発にはお金をつぎこもう。同時に自然エネルギーの研究を進め、コストが十分に下がるよう後押ししよう(今の高価で未熟な技術を延命させる補助金はダメ)。

これが反原発の立場なのか、原発推進の立場なのか、ぼくは分からないし、気にもしていない。でも、これがいちばん正しいことだと思う。特にこれから日本は原発を輸出する気なんでしょう? だったら、それが最大限に安全なものになるよう、今後も面倒を見る責任があると思うんだけど。