東浩紀『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』

晴。
プール。アピタ
ネットに繋がっているのがヴァーチャルなら、テレビの画面もヴァーチャルだと云わねばならぬだろうが、被災者の立場とは比較にならないとはいえ、テレビの画面にうつる地震の帰結の画像が与える衝撃は何なのだろう。これだって、ひとつのリアルであるに決っている。様々なメディアで繋がっているからこそ、すべての日本人(に限らないかもしれないが)に、深く大きい衝撃を与えざるを得ない。これはこれからの日本人の無意識に、大きく関ってくる出来事になった。

東浩紀サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』読了。すべて既読だと思うが、いま読んでも大変に刺激的だ。ただ、文体は九〇年代の「現代思想」風であり、暗号を解いていくような読み方が好きでない人には、向いていないかも知れない。ラカンなども、いまでは殆ど言及されなくなった。しかし、「抽象(化)」とか「メタフィジック」ということを考えるには、ラカンとそれを批判したデリダの仕事を忘れてしまうことはできないだろう。いまから見ると、東浩紀の仕事は本当に孤軍奮闘だったと思う。


マレイ・ペライアの弾く、バッハのパルティータを聴く。第一番と第六番。模範的な、素晴しいバッハ。
バッハ:パルティータ第1番、第5番、第6番

バッハ:パルティータ第1番、第5番、第6番