東浩紀のなげやりについて

東浩紀の文芸誌の今月の連載や、彼のブログの今日のエントリーなどを見ていて、なぜか何だかさみしいような気分になった。ネットの普及で情報の値段がほとんど零になった現在、批評がいかにあり、いかにあるべきか、というような問題意識で、彼には今や批評への愛だけあって、後はなんだかもうどうでもいいのではないかというような、そんな感じがしたのである。自分は、東の仕事は適当にフォローしているに過ぎず、彼の興味のある分野に大して興味の持てない点で、決して彼のよい読者ではないと思うが、自分の同世代の批評家では、最もシャープな人くらいにはリスペクトしている積りだ。そんな人が、なげやりになっているようなのを見ると、今の時代の野蛮さみたいなものを(勝手に)感じてしまう。自分も批評を読むのは好きな者だが、いま批評を読む人の質(たち)の悪さは、ちょっと尋常でないと思う。ネットを見ていると、その態度の尊大さ、自意識の過剰、文章の薄汚さに、こっちまで気が滅入ってくることが多い。せめて自分の書き散らす、読書メモに毛の生えたようなものくらいは、読む人をそんな気にさせたくないとは思うのだが、それは上手くいっているのやらわからない。それはともかく、ネットにももう少し愛が見られるよう、個々人のささやかな心がけが広がっていくようにならねば、駄目なのだと思う。