ケータイに関する或る出来事を聞いて思ったこと

突然ですが、テレビを評した大宅壮一の「一億総白痴化」はほぼ実現したけれども、するとケータイは「一億総廃人化」かな。別に自分を棚に上げて云うつもりはないですが。もうケータイというコミュニケーション・ツールをなくすことは出来ないから、これによるコミュニケーションのあり方の変化を、注意深く見守っていくしかないと思う。今の子供たちは小学生のときからケータイを知っているから、これからの人間関係がどういう形になるのか、洵に興味深い。ケータイを持ってメールをやってさえいれば、公共の場でも他人のまなざしを忘却し、自分だけの世界に没頭できる、そういう対他関係に日本社会全体が向かっているのは、確かだと思う。KY(空気が読めない)という語があるけれど、ケータイは意外にも、自分の(リアルな)周囲の「空気」を無視して、ケータイによって創られる(女性的な)共同体に繋がっていたいという欲望を喚起するのではないか。ケータイにはまり易いのが男性よりも女性なのも、それと関係があるだろう。(フェミニストに叱られそうですが。)自分の肉体の周りのリアルから、ますます遠ざかっていくという世界。この流れを逆転させることはまず容易ではないし、そもそも逆転させる必要があるのか、ということも云えるとは思うが、自分としては直感的に、生の本来のあり様のために、その必要はあると確信している。「ケータイ共同体」みたいなものは、たぶん、テレビもそうだったように、無明を増すだけである。

追記

後から読むと、馬鹿なことを言っていますね。ツイッターがかくも一般化した今となっては、携帯メールなど何ほどのことだろう。みんな繋がり合いたいのだものな。(2010/4/10記)