さわやかな日和

晴。きれいな青い空。
再び受験して、東大に入る夢を見る。わたしは若くて、なぜかフェミニンな感じ。自己採点してみると、国語(だったかな)と生物学がよくできていたらしい(現実の自分は、高校で生物学は履修していない)。そのあと、東京(なのだろうなあ)の町のシーンと、大学で楽しくサークル活動をするというシーンを見る。(こう書いてみると、現実の自分のまさに正反対という感じだ。)
 
今朝は起きて、何かとても気分がよい。こんなことはめずらしいが、昨晩伊藤比呂美さんを読んだせいかな。
 
スーパー。五倍ポイントの日。
至極さわやかで気持ちのよい日和。存在するだけで細胞がすみずみまで浄化されていくような感じがする。こんな日は、年に何日もない。
 
 
昼から県図書館。「新潮」誌最新号は入っていなかった。たまたまもう一度6月号を繰っていたら、蓮實重彦青山真治追悼文「青山真治をみだりに追悼せずにおくために」が載っていたので読む。わたしは映画について何も知らないのだが、これはよいものだった。わたしは、これまで蓮實重彦をかなり読んできたのに、じつはちっとも読めていなかったのではと疑い始める。
 「音楽の友」誌が小澤征爾特集を組んでいたので、これも手にしてみる。音楽ヒョーロンカその他による長い座談会(?)がメインだが、取り立てて大したものではなく、かつて読んだ「素人」の村上春樹の方がよっぽど小澤を、音楽を聴けていることは明らか。もっとも小澤征爾自身が、村上の耳がとんでもないことを保証しているくらいなのだけれど。

図書館敷地から、岐阜県美術館を遠望。

図書館側面。


歩いている小道は歩いて敷地の外に出られるそれなのだが、誰かが歩いているのを見たことがない。
 
図書館の隣のミスドへ寄ろうと思っていたら、ミスドの入っているスーパーが何故か定休日。スーパーに定休日とか、あるのか? 今日は「ひぐち」も休みなので、どうしようかと思い、JR岐阜駅近くのコメダ珈琲店に寄る。たっぷりブレンドコーヒー580円。借りてきた、『吉本隆明全集20』を拾い読みする。この巻は 1983-1986 ということで、ニューアカニュー・アカデミズムの略)の流行が1983年であった。中沢さんとの初遭遇(「中沢新一を真っ心で。」)があって、おもしろく読む。のちにお互いがお互いの深い理解者になるのだが、この遭遇はあまりうまくいっていない、というか、これは中沢さんが悪いよね笑。吉本さんのことを「脳軟化症」とかいっていて、これはわたしも知っていたが、初期のちょっとおっちょこちょいのところがある中沢さんだ。吉本さんの態度はとてもフェアなもので、ああ、吉本さんだなと思う。吉本さんは、全集で読むのがいい。知ることのなかった短文に、いくらでも感動的な文章が見つかる。ほんと、全集が出ているのが奇跡みたいなもんだ。

いま、詩については、できるだけ<意味>に対抗できる<無意味>の世界を、はっきりとした輪郭で作りあげられるかどうかが、じぶんの試みと関心の中心だとおもっている。過去にも未来にも頼らないところから、言葉を産出すること。そして構築された世界は強固で、しかも虚あるいは死からの像(イメージ)をもつこと。あるいは逆に、どんどん詩の言葉を喪っていく作業。そしてどこまで言葉を喪っても沈黙にならないような世界の像(イメージ)を算出すること。
『全集20』「詩について」(1985、p.419)

これはわたしの誤読かもしれないが、わたしが「言葉によって沈黙すること」といっていることと同等であると勝手に解釈している。

コメダの駐車場から、青い空を見る。右は JR の高架。
 
夜。
映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 - 永遠と自動手記人形 -」を観る。

こともなし

日曜日。曇。
 
老父がビワの実を大量に採ったので、またコンポートを作る。
 
昨日ウチで撮った写真。昔はそれほど虫は好きでなかったのだけれど、随分と好きになった。身近にいるので、特にチョウが好きだ。家の中のクモや、またゴキブリでさえも、積極的に殺そうとは思わない(まあ、ホウ酸ダンゴを置いたりするので、ゴキブリはほとんどいないのだけれど。偽善ですなあ)。ただ、ムカデは噛まれるとひどいので、ちょっと敬遠したいというところが徹底できませんな。蚊も刺されるとかゆいので、退治するかも。
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澁澤龍彦が虫や動物が好きだというのに、まことに共感するわたしなのだ。そういや「こころ旅」の火野さんもそうで、いつも感心しながら見ている。
 
 
昨日柳ケ瀬を散歩した写真が自分でおもしろくて、何度も見返している。そもそも、2022.4.6 に名古屋の白川公園付近をたった30分くらい歩いてみて、それがわりとよいなと思って岐阜の街も歩こうと発意したのだった。自分では意識していないが、きっと田舎者の目であり、それが岐阜という、誰も気に留めない、消滅しても気づかないであろう極めて凡庸な町を散歩するという、何かそういうおもしろさが自分個人にだけ感じられるのだと思う。散歩なんだから、同じエリアを、ちがう日にもっと歩いてみたい気がするし、まだ歩いていない路地もたくさんあるしな。岐阜駅周辺も歩きたいものだ。そのうち、犬山や大垣も散歩したい。
 
昼寝。
 
夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。

岐阜・柳ケ瀬散歩

晴。
 
英文学者の川端康雄さんが、『オーウェル「一九八四年」 ディストピアを生き抜くために』という本を出されたことが、新聞の読書欄に載っていた。図書館には入っていないようである。
 
スーパー。
 

 
さわやかな天気なので、昼から岐阜市中心部の柳ケ瀬あたりを散歩しに行く。柳ケ瀬はかつては全国的にも知られた繁華街だったが、郊外化の波に呑まれて衰退していた。さて、どうなっているかという興味もある。
コインパーキングに車を置いて歩く。
以下、美殿町商店街


老舗漬物屋。

家具屋はリニューアルしたのだな。

古書「徒然舎」。いま、岐阜の町中の古本屋といえばここだろう。ネットなどでそれなりに知られた古本屋だと思う。岐阜の古書店というと、わたしはかつて、いまはない「我楽多書房」をよく利用していた。「徒然舎」には入ったことがないので、帰りに入ることにする。
 
柳ケ瀬中心部。

土曜日のせいか、フリーマーケットのようなことをやっている。意外に人が出ているな。



本通りから右へ折れる。
弥生町は飲み屋街なので、昼はひと気がない。

旧長崎屋前でもフリーマーケット

見るも無惨だったレンガ通りは古いビルが壊され、アーケードも取り払われてアッケラカンとした。何もなくなったが、この方がずっといい。


岐阜高島屋前。高島屋九階の自由書房は、大手チェーンの大垣書店に替わった。ここもそのうちつぶれるのではないか。さすがに文庫本・新書本は充実していて、蓮實重彦の『「私小説」を読む』(講談社文芸文庫、2014)をなんとなく買ってみる。
 
西柳ケ瀬。歓楽街であるが、さびれているなあ。







 
西柳ケ瀬から引き返す。
岐阜高島屋、奥は建設中のタワーマンション

再び柳ケ瀬本通り。引退したゆるキャラやななのフラッグが垂れている。
旧自由書房本店は、マンションに替わっていた。
 

再び美殿町の古書「徒然舎」へ。初めて入ってみたが、結構ハイブラウな、なかなかよい古本屋だ。美術系、幻想文学も目立つ。きれいでおしゃれな古本屋という感じ。100円均一棚で、中村雄二郎上野千鶴子の往復書簡集『<人間>を超えて』(1989)の文庫本(1994)を拾う。お、ヤスケンの『へそまがり読書王』(2002)なんてのが安い。もうひとつ、物理学者フリーマン・ダイソンの『反逆としての科学』(みすず書房、2008)なんかは、古書店で出会わなければ買わなかったような本。ちなみにフリーマン・ダイソンは量子電磁気学の建設者のひとりで、ノーベル賞の三人の枠に漏れたのだが、ジャンル横断的な、特異な物理学者だった。じつは昔、わたしはフリーマン・ダイソンを訳そうとしたことがあって、個人的に至極なつかしいのである。〆て三冊購入。
 

街角ガイドツアーみたいなのをやっていて、二十人くらいの人たちが美殿町の歴史を説明されながら歩いていた。へー、岐阜でもこんなことをやっているのだな。今日は土曜日のせいか、思ったより元気な岐阜の街を見ておもしろかった。
 
 
夜。
『暗き世に爆ぜ』の続き。「賛々語々」を読む。せっかちに読む本ではないので、のんびりいっている。いやあ、よい句がたくさん引いてあるな。荷風の句は、なかなかいいんだな、無知である。成瀬櫻桃子の、先に亡くなったダウン症の娘を詠んだ句とか、ベタだけどこういうのにほんとに弱い。西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来(きた)る」は、老母に教えられた句ではなかったか。いまの季節にぴったりで、わたしは胸をガン見するほど大胆不敵ではないのだが、白い夏服になったまぶしい女学生(死語)たちがやはり思われる。こういうのが、若さとか、命だとかいうもんではなかろうか知らん。若い頃に戻りたいとは全然思わないのだけれど。

宇野重規『民主主義のつくり方』

曇。
 
午前中、何をしたっけ。何かぼーっとしてた。
 
昼食後、新しい冷蔵庫がやって来た。前より小さいので、ビン類など、収納するのに少し考えねばならなかった。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー429円。宇野重規『民主主義のつくり方』を読み始める。第三章まで読了。とてもいい本だ。よく整理されていて、わたしのような社会科学に不案内な人間にもじつにわかりやすい。のに、中身は根底的で高度だ。ルソー的な民主主義に耐用期限がきていて、さあ、どうしたらよいのでしょうという問題を扱っている。本書はそれを、プラグマティズムを根底にした民主主義を考えてみてはどうだろう、としているわけだ。プラグマティズムアメリカ的な哲学だから、ヨーロッパ由来ではなく、アメリカ流の民主主義ということになるのかも知れない。そして本書には、功利主義を、あまり根底として使いたくない、という傾向が見られる。「経済学化する政治」については、ロールズが検討されているが、著者はあんまり好きではないようで、でも仕方がない、というところか。さらに進んで、最近の傾向である「工学化あるいは経済学化する政治」「技術論としての政治」まで踏み込むとよかったのかも知れないが、そこは自制(?)してある。
 第三章「習慣の力」で、まさに「習慣」と政治について論じられていて、これは独創的な感じがする。ふつう、「習慣」という個人的なものと政治というのは、結び付きにくいよね。さて、この章を読んでいて、わたしは「習慣」というのはあまり好きではないなと思った。「習慣」=生の自動化*1で、わたしはむしろ「反復」について最近よく考える。わたしにとって、「反復」とは自動化されてはならないものであり、人生はまさに「反復」そのものだと思うのだ。「反復」は毎日同じことをやっていても、その都度新しい一日なのである、理想的には。「習慣」は、生の希薄化だ。例えば、ご飯を食べるのは、「習慣」であってはならないとわたしは考える。

大学生だったら是非読んでもらいたいし、意欲的な高校生なら読める好著だ。
 ところで、わたしは、「個人の幸福を最大化する」という工学乃至経済学的発想にまったくなじめない、古くさい人間、あるいは変人だなあと思う。人間は、それよりもう少し複雑であるべきだと思っている。
 
ウチのクチナシの花。
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図書館から借りてきた、宇野重規『民主主義のつくり方』(2013)読了。本書は希望のための書であり、第四章と「おわりに」は強くそれを感じさせる。例えばオバマ大統領がその象徴的な存在として描かれているが、いまの我々はそのオバマ大統領の失敗と、その後のトランプ政権(2017-2021)を知っていたりする。そして、日本という国の国際的地位は、本書後、経済的・学術的にはっきりと転落したことが明らかとなった。まあ、それは措くとしても、少なくともわたし個人は、現在のどこに個人の希望があるのか、よくわからない。著者が、いまの(集団的)希望をどこに見出しているのか、知りたいところである。民主主義こそが、現在の希望でもあるというのだろうか。第四章の田舎の「町おこし」? わたしは、民主主義にもかかわらず、云々といいたいところであるが、悲観的なことを書くのはよくないよね、それは。
 いずれにせよ、本書はとてもおもしろかった。わたしと同世代の著者には、敬意を表したい。
 

 
夜。
狼と香辛料II』第6話まで観る。いや、これ、むちゃむちゃいいわ。好きだなあ、こういうの。商売の話と、勝手にやってろ話が一緒になってるとは、独創的ですね。ホロのデレに悶えるおっさん笑。

*1:著者は、それ以上のものを「習慣」という語に見ている。メンタル・トレーニングなど、行動・思考の準備といったものも含み、未来へ向けた、変更可能なものであると。しかし、いずれにせよ生の自動化という側面を無視できるものではないと思う。確かに予めの準備は大事だ。しかし予めの準備は、結局、想定外の状況には役に立たない。世界の偶然性は、どこまで準備をしてもすべて予め対応することはできないのである。そして、敢ていえば、それこそが人生なのだ。
 さらにいえば、世界の偶然性(可能性)をできるだけ減らそうというのが、現在進行する、リスク管理社会である。著者のいう「習慣」は、まさにリスク管理社会にふさわしい。無限の世界を、有限化しようとする絶望。

こともなし

日曜日。晴。
 
スーパー。
 
とりあえず西洋に限った話をする。個性的な文体をもった書き手が少なくなったような気がする。いま、西洋人で個性的な文体をもった人って、誰ですか? 教えてもらいたいのだけれど。文は人なり、という言葉があるが、どういうことかわかる?
 
 
夕方、少しだけ散歩。暑いので麦わら帽子をかぶって歩く。みっともないおっさん。以下は代わり映えのしない写真。











どうだろう、30℃は超えていたな。ドラッグストアに寄る。
まだ、田んぼに水が入らない。国レヴェルの減反政策はなくなったが、(地方自治体から?)補助金が出るので、米を作らない農家がさらに増えた。年寄りが農業をやらなくなると、若い人などは当然やる筈がない。用水には水が滔々と流れているが、これもいつまで続くことだろう。
 
わたしは知らなかったが、「減反政策」が廃止されたわけではないようだ。減反政策の廃止とは、マスコミの一種の誤報のようである。なるほど、道理でねえ。
smartagri-jp.com
荒れた田んぼ。

 
夕食時、外でアマガエルが鳴いていた。最近、カエルの鳴き声を聞かないし、カエル自体見かけなくなった。トノサマガエルをほんと見ない。昔は夜になると、川でウシガエルがぼーぼー鳴いていたものであるが。
夕食のデザートに、ウチの枇杷(ビワ)の実を食う。今年初めて穫れたもの。
 
夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。また胸糞展開かよ。確かに義時の正妻をどう導入するかと思ってはいたが、まさか八重さんを殺すとはね。三谷幸喜ドラマトゥルギーがすばらしすぎて、胸糞悪い。しかし、わたしのドラマの見方は単純だなあということは否めないが。
 今回出てきた伊豆の願成就院はまだ 2022.4.21 に家族で訪れたばかり。国宝の運慶仏五体がじつにすばらしかったのを思い出す。
 
 
上で「麦わら帽子」という語を使ったが、「麦から帽子」という言い方もあるよね、ということで検索してみた。いまではまず使われないようであるが、確かに「麦稈(から)帽子」「麦稈帽」という語はあるようだ。鏡花などが使っているらしい。
 
 
TBS「報道特集」に波紋。「福島の若者が甲状腺がんで苦しんでいる…」原発事故との因果関係は国連組織が否定
福島での甲状腺癌の問題について、2022.5.26 に書いた内容に関するネット記事があったので、リンクしておく。この「報道特集」の番組は観ていないが、ひどい内容だったことがネットで話題になっている。日本人のネットリテラシー、悪くないことが判明して正直意外だった。ネットで検索すると、誤った内容のものが多いくらいなのだが。なお、岩波書店の「科学」という雑誌も、「放射能デマ」に染まっていて残念である。

性の暴力性・女性原理

曇。
 
「月曜日のたわわ」を人々はどう見るか/田中辰雄 - SYNODOS
データ分析。若い人たち、さすがに冷静なんだな。ちょっと意外だったのだが、当たり前といえばそうか。頼もしい話である。
 ちなみに、この問題に関するわたしのスタンスは分析の選択肢になかった。前にも書いたとおり、この広告は版元の確信犯的な炎上ねらいであり、これは趣味が悪いとわたしは思う。その意味で支持しない。
 なお、ある質問の選択肢にあった、「男性目線のいやらしさを感じる」というのにはちょっと笑った。わたしに関していえば、中年独身男性としての(?)いやらしい、エロい視線をもっているし(例えばわたしはここで問題になっている、「女子高生」に思わず性的なものを感じることがある)、また、そのような視線は女性に対する暴力になりうるから、公的な場で表明(あるいは公開)すべきでないという最近の風潮を理解できる、といっておこう。おっさんにはむずかしい時代になったものである。
 さらにいっておけば、性にはある程度の暴力性がどうしても含まれてしまうように、わたしには思える。もちろん「男性」が加害者で、「女性」が被害者である。完全にサニタイズされた性は、もはや性ではないように思われる。しかし、現実化した過度の性暴力は、もちろん許されない。強姦、痴漢やDVなどの、性暴力の被害は悲惨だ。そこが、むずかしいところで、自分でもはっきりまとまっていないところである。性の暴力性をある程度でも認めることは、社会正義の立場からは許されないことであるが、現実にわたしには性の暴力性がある。つまり、わたしのような人間は、厳密にいえば社会に存在すべきではないということになるかも知れない。
 いずれにせよ、性の領域は完全に論理で詰めてしまわずに、ある程度のあいまいさがあった方がよいような気がする。少なくともわたしには、男性の性的想像力の問題すら(?)、自分でよくわかっているとはいえない。また、性的嗜好の問題。これは非常に個人差の大きい話である。なかなか一般化はむずかしいと思う。
 
ここに、いわゆる「女性原理」の問題を入れると話はさらに複雑になる。男性を呑み込み、包み込むものとしての「母性」、グレート・マザーの問題といってもいい。男性が、女性に「溺れる」という感覚でもある。(これら「男性」「女性」とは、多分に比喩的なものでもある。また、「母性」といっても必ずしも子供のあるなしではない。)「男性原理」の強い西洋とは反対に、日本ではこの「女性原理」がもともと非常に強い、というのが河合隼雄先生の指摘したことであった。この「女性原理」の問題は、論理で語ることが非常にむずかしく、人によってはこの問題を疑似科学に分類することも考えられるが、実際に存在する大問題であることをわたしは疑わない。これは意識の深いレヴェルの話なので、いまのようにフェミニズム隆盛の時代でも、ほとんど手付かずで残っているように思われる。また、現在の切断する知的なフェミニズム自体が、かなり「男性原理」的であることも、問題をわかりにくく、むずかしいものにしている。
 グレート・マザーとしての「母性」は、論理からは「悪」「暗黒」と見做されがちなのだと思う。性の暴力性などとは比較にならないほどの、「絶対悪」として。それは、切断する論理(=「光」)を呑み込んでしまうからだ。
 

 
いい天気。日差しが強くなってきた。
ひさしぶりのイオンモール各務原。何か歩いている人が減った感じ。UNIQLO で部屋着と下着を買う。
3Fの未来屋書店岩波新書西田幾多郎本、文庫本の伊藤比呂美さんを購入。
1Fで地元の和菓子を買って帰る。
 
ウチのウコンの花。
20220527170125
 
小坂国継『西田幾多郎の哲学』を読み始める。「序論」を読んだが、これ、とてもいい。じつによくわかるし、わたしの考えているに近いことを、西田もまた深く考えていたのだなということで、非常に共感できた。例えば後期西田の課題のひとつは、わたしの言葉でいうと、自分=世界であるならば、そこに「他者」はいかなる形で存在するのか、といいあらわすことも許されよう。わたしは、そこを西田がどう「解決」したのか、はなはだ興味がある。
 それにしても、(仏教を中心とする)東洋思想を西洋哲学として記述しようというのは、何というドン・キホーテであろうか、西田は! その悪戦苦闘ぶりには、感動的なものがある。本書序論は、そこのところがとてもよくわかっている感じだ、わたしなどがいうのは僭越ではあるが。先を読むのがまことに楽しみである。

西田の「場所」の概念は独創的である、と。確かに。西田哲学は、一種の唯心論(この語には気をつけねばならないが。例えば「唯物論」に対する「唯心論」ではない*1)である、と。まさに。西田は自分の哲学を「徹底的実証主義」と呼んでいるそうである。おもしろい。
 
夜。
平田精耕老師を読んで、さっさと寝る。

*1:通常は、「唯物論」に対しては「観念論」か。

河合隼雄&中沢新一『仏教が好き!』

日曜日。晴。
 
午前中、ごろごろ。
 
昼寝。
 
 
河合隼雄中沢新一『仏教が好き!』(2003)再読了。後半を読んだ。

河合先生が脳梗塞で倒れられたのは 2006年か。そして先生は、目を覚まされることなく 2007年に亡くなられた。この本から、あまり時間はなかったわけか。
 
この本では危惧がたくさん論じられているが、我々はさらにどうしようもなく追い詰められているな。この本の段階では、まだまだ牧歌的な感じがするほどである。というか、本書の危惧が予想を超えた厳しいレヴェルで現実化した、というか。我々の空疎感。
 
我々にとってのエンタメは、鎮痛薬、モルヒネのようなものか。エンタメの技術がひどく上がっているのも、そのことが必要だからであろう。
 
 
夕方、少しだけ散歩。日差しが強く、手で目の庇を作って歩く。








写真は撮れないが、ツバメが乱舞していて気持ちがよい。カッコいいなあと思う。
 
金柑を食う。甘くて美味い。
 
夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。
 
だらだらと YouTube 動画やニコニコ動画を観る。