物語と心の「治癒」

晴。
 
(考えてみれば当たり前のことが)ふと腑に落ちた。物語は心の「治癒」のためにあるのだ。現代においてこれほど大量の物語が必要とされているのは、それだけ「治癒」を必要とする心がたくさん存在するからなのだ。それは、現代が、複雑で絶えずめまぐるしく変貌する、高度資本主義社会という、「熱い社会」であるということとも関係がある。次々と押し寄せる多様な新規さゆえに、それぞれの心がちがった構造の「病」をもち、それを「治癒」するため、多様な新しい物語が次々と生産される必要があるのだ。
 それでいえば、同じ「病」を共有しない心は、同じ物語を共有するということもない。多くの人が、それぞれ自分に合った物語を必要としている。
 では、神話と物語はどうちがうのか? 現代は神話が「流通する」ということはない。
 
 
肉屋へ行く。後ろの車を運転する女性が、ひとりで怒っているかのように激しく片手を振り回しながら、険しい顔をしてしゃべりまくっていたが、同乗者がいないように見えたので、たぶん Bluetooth しながらか、スマホに向かってしゃべっていたのだろうな。ちょっと異様な光景に見えてしまったが。
 
昼飯に袋のインスタントラーメンを作る。もやし入り、上に肉屋で買ってきた焼豚をのせる。わたしは生たまごも追加。
 
 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。一杯のおいしいコーヒーは、しばらく鬱気を散じせしめる。
オウィディウスの『変身物語』の続きを読む。
 
図書館から借りてきた、オウィディウス『変身物語1』読了。高橋宏幸訳。京都大学学術出版会、西洋古典叢書

 
クセノフォン(クセノポン)の『ソクラテスの思い出』を読み始める。かつて岩波文庫版で読んだが、新訳で読めるとはね。ありがたや。 
 
夜。
まよチキ!」(2011)第12話(最終話)までと OVA? を観る。こういうB級のバカバカしいアニメは好きだ。ネットで評価を見たら、第13話が最終話で、OVA じゃないと知って驚く。皆んな仰っているとおり、実質第12話で完結していて、これが最終話ならいらないが、まあ OVA として見てくれってことだよね。ちなみに、アニメを見終わったら評価サイトを見るの、皆んなでワイワイやってる感じで、とっても好きだ。気に入った作品の悪口も、僕は気にならないで楽しむ方。

NHKスペシャル「戦火の放送局~ウクライナ 記者たちの闘い~」を観る

祝日(勤労感謝の日)。雨。
 
睡眠の後始末をしているだけで、あっという間に午前中が過ぎてゆくのですけれども。
 
昼食を食べながら、NHKスペシャルの「戦火の放送局~ウクライナ 記者たちの闘い~」(再放送)の一部を観て興味を覚える。全編を観てみたいと思ったので調べてみると、U-NEXT ではいまのところ観られないようで、残念。NHKのコンテンツも U-NEXT のポイントで結構観られるのだけれど。本家のNHKオンデマンドでは観られるので、課金してそちらで観るかな。
 
雨の中、県営プール。
 
 
NHKオンデマンドにアカウントを作り、「戦火の放送局~ウクライナ 記者たちの闘い~」を購入して観る。戦時下のウクライナの放送局・スタッフを扱った、NHKによる戦争報道。ちょっと言葉を失う。観ていてとてもつらかった。戦争で殺されていく、民間人、子供たち。プロパガンダ。報道する人たちがいなければ真実は伝わらないわけであるが、記者たちもまた戦争の当事者で、事実を目の当たりにして心に深い傷を負わずにはいない。

 

 
人間だけでなく、生きとし生けるもの(植物も含めよう)への「惻隠の情」(共感能力といってもいいし、慈悲の心といってもいいかも知れない)は人間がもともと普遍的にもっている能力であるけれども、ロゴス的な知性はその「惻隠の情」を殺す。なぜかはわからないけれど、そうなっている。「惻隠の情」は、心の土台である。

遺伝子目的論

曇。
 
スーパー。うどんに添える天ぷらがまたなくて、マックスバリュへ寄る。
 
なーんかいろいろ落ち込むな。まー、落ち込むときは落ち込んだ方がいいんだ。限界まで落ち込めば解体する。
我々はつまらんことで簡単に落ち込むし、つまらんことで簡単に元気が出る。まー、基本的に落ち込むことの方が多いんだけどな笑。生きることは苦痛だ、って当たり前だな。だから何って感じ。
反出生主義とかも合理的には正しいような気もするが、知性の匂いがして、結局どうでもいいんだよね。インテリ、つーか、論破、つーか。オレはバカだからさー。ただつらいだけで、それ以上はどーでもいい。
 

 
少し昼寝。
 
図書館。昨日名前を出したスタノヴィッチ『心は遺伝子の論理で決まるのか』を借りてくる。棚を見ていると、どうしてこの本がこの図書館に入ったのかは謎に思える。あと、山口尚の『幸福と人生の意味の哲学』が目に入って借りる。山口の note 連載は目を通している。
 
帰ってきて書架を見たら、ピンカーの『心の仕組み』、しっかりあるじゃん。かつてのわたしの感覚だと、ピンカーは(科学的に)いかがわしい感じがしていたのだが(だから積ん読のままで読まなかった)、いまでは吉川浩満など、必読書みたいな雰囲気で言及していて草。
 
 
スタノヴィッチ『心は遺伝子の論理で決まるのか』を読み始める。冒頭から問題含み。ドーキンスは「遺伝子は我々人間のためにある」という目的論を否定し、「我々は遺伝子の自己複製のためにある」「我々は遺伝子の保持のための乗り物(あるいは「ロボット」)に過ぎない」に転換した。しかしそれは、「遺伝子目的論」とでもいうべき、遺伝子を主体化した、転倒した別の新たな目的論の導入に他ならない。これはまったく科学的でないだろう。
 第二章まで読む。
 
夕方、かかりつけ医のところでコロナワクチン接種の申込みをする。五回目。
車でサンソン・フランソワの弾く「クープランの墓」を聴く。とりわけ玉を転がすような弱音がすばらしく、思わず聴き惚れる。天才・フランソワ。
 
 
夜。
まよチキ!」(2011)第8話まで観る。どこかで見たような設定の寄せ集めだけれど、なかなかおもしろい。展開も見え見えだが、引きが上手いのでつい観てしまうな。ヒロインのスバルを始め、女の子たちのキャラデザがかわいい。スバルが何か「インフィニット・ストラトス」のシャルを思い出させたり。こういう下らないアニメは好きだ。

吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

晴。
 
お客さん用のふとんがもう必要ないと思われるので、片付ける。
 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー429円。
吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』を読み始める。おもしろいので、すらすらと第一章を読み終えた。いやこれ、「現代の病」を凝縮した、なかなか得がたい本だと思う。いまの知的エリートが何を考えているのか、如実にわかるから、これからの時代のエリートになりたい人は読むといい。途中まで読んだ限りでは、著者はわたしの向いている方向とまったくちがうそれを向いているから、本書はよい反面教師になりそうだ。
 著者は科学をよく勉強しておられて、これは完全におかしい、とわたしに思えるところはほとんどないが、しかし、進化心理学についてはどうなのかなあと思う。わたしには、進化心理学はかなりいかがわしく感じる、というか、進化心理学ははたして科学なのか? 2022.7.15 にちょっと書いたとおり、進化心理学を認めるには心のそうとう細かいことまで DNA によって決定されていると証明されねばならないが、DNA が決定するのはあくまでタンパク質の種類であり、仮に心=脳であるとして、神経細胞の構造が細かく遺伝によるタンパク質によって決定されていると証明されねばならない。確かに脳の構造がある程度までは遺伝によって決定されることは理解しているけれども、そこまで科学が言っているとは、わたしは知らないのだが。ま、最新の研究は知らないけれどね。

追記。本書で紹介されている、スタノヴィッチの『心は遺伝子の論理で決まるのか』が図書館にあることがわかったので、明日借りてくる。
 
帰りにフラワーパーク江南に寄って、少し散歩。








 
 
夜。
吉川浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である 増補新版』読了。本書はひとつの物語を提供している。「人間」の消滅、あるいは「新しい人間」観の誕生、という物語。その「新しい人間」観は、いわゆる認知革命、進化論、AIによって形成される。そして、その立場からは、わたしなどはその消滅すべき、古い人間ということになろう。物語というものはある意味では陳腐であり、広く流通し得る。本書の提供する物語も、広く流通する予感がある、いや、既に流通しつつある。新時代に乗り遅れるな、新しい帆を揚げよ!となってもわたしは驚かない。
 
先日知った、東さんの「シンギュラリティ民主主義」という語をちょっと思い出すな。さすがに東さんは敏感だ。単行本になったら是非読みたい。
 
 
阿部和重『ULTIMATE EDITION』を読み始める。短篇集。半分くらい読んだ。現代文学じゃ。あいかわらず、最低のチープさを圧倒的な強度と複雑さで描いておるのお。これ以上、爺には何も云えませんわい。

アニミズムの重要性 / 雨宮処凛『コロナ禍、貧困の記録』

日曜日。曇。
 
アニミズムの重要性。アニミズムはとてつもなく古い感性だが、人類が自然との繋がりを保っていく上で、現在・未来と必須のそれでもある。しかし、現在、都会においてアニミズムを涵養することがとてもむずかしいことは、想像できる。わたしはかなりアニミスティックな人間だが、それはわりと最近になって開発されてきたものだ。田舎者の功徳。もっとも、田舎者であれば直ちにアニミスティックたりうるかというと、もちろんそんなことはない。田舎者でも、アニミズムの回路をもっていない人間がたくさんいるのは、想像できる。
 いかにしてアニミズムを涵養するか? 特効薬はちょっと思いつかない。ただ、日本人はわりとアニミスティックな人が多そうな感じはする。古代的なものがまだ残っている日本。神道アニミズムの宗教だが、神道は死に切ってはいないだろう。もっとも、アニミズムは「宗教」というよりは、その前段階だ。
 アニミズムは最新の科学と共存できないことはないと思う。しかし、タワーマンションなどで育った子供が、アニミスティックであることはむずかしいかも知れない。いや、わからないが。知識人も、アニミスティックたるのはむずかしかろう。むしろアニミズムの古さを嘲笑し、その非合理性を非難するかも知れない。愚かしいことである。
 アニミズムは記号の奥にある。記号しか見えていない現代人が、かそけき気配を感知し得ないのも無理はない。記号の間、記号の奥にあるもの。
 

 
我々は心をコントロールすることはできない。心は機械的に必然様に動くから。
他者はもちろん我々がコントロールすることはできず、徹底的に偶然様である。ゆえに我々は心をコントロールすることはできない。
 
我々の自由は状況と一体化した立体的かつ連続な選択においてある。俗に「ゾーンに入る」という言い方があるが、それは自由に近い。
 

 
図書館から借りてきた、雨宮処凛『コロナ禍、貧困の記録』読了。副題「2020年、この国の底が抜けた」。承前。いまの日本は災害対応など、おせっかいなほど過剰に命を大事にするように見える一方、それは建前に過ぎず、人の命が極軽いところがある。人の命が差別され、選別されている。これでは我々は、まったく偽善者という他ない。(自分も含めて)日本人も堕ちたものだと思う。いかにして命(アニマ)を感知するか。また、我々一般人は、政治とどう向き合うべきなのか。

我々は心の土台がしっかりしていないのに、かしこくなりすぎたな。感情が幼稚に過ぎる。ネットを見ているとよくわかる。
 
 
NML で音楽を聴く。■グラズノフのピアノ・ソナタ第一番 op.74 で、ピアノはニコライ・メドベージェフ(NML)。ショスタコーヴィチピアノ三重奏曲第二番 op.67 で、演奏はベラルティ・トリオ(NML)。力演。終楽章など、圧倒された。
Piano Trios

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ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NMLCD)。これは…。プラジャークQ はわたしごときが語っていい音楽家ではないことがわかった。こんなカルテットがあったとは。
 
 
夜。
U-NEXTで「シェルタリング・スカイ」(1990)を観る。ベルナルド・ベルトルッチ監督で、原作はポール・ボウルズ。映画館で観れば、映像はきれいだったかも知れない。しかし、あんまりこういうことはいいたくないけれど、全編オリエンタリズム全開じゃね? エキゾチシズムのつもりなのだろうが、ほとんど人種差別といわれても仕方がないと思う。ほんと2時間17分、苦痛だった。

こともなし

晴。
早寝早起き。朝食に昨日道の駅で買ってきた、つるやのサラダパンを食べる。滋賀のご当地品として、何か奇妙に人気らしい。別に大したものではないけれど、僕は結構好きですよ。
 
しばらくベッドの上に寝転がっていたら、10分ほどうとうとして、夢を見る。若い人たち(全員私服だった)と講義を聴いていたら、物理学の本についての感想をわたしに求められる。わたしはそんな本は知らないという。そのうち高校時代のクラブの知人が壇上に立って、わたしを壇上に上げてしまう。少し拍手が起きる。わたしは喋ることなど何もないとか喋っているうちに、目が覚める。
 
 
スーパー。マックスバリュ
 
曇。
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。雨宮処凛『コロナ禍、貧困の記録』を読み始める。副題「2020年、この国の底が抜けた」。ウェブサイト「マガジン9」に連載された文章をまとめたもののよう。第一章を読んだ。リアルといってもいろいろあるとは思うが、雨宮さんはまさにいまのある種のリアルに確実に触れている文筆家で、わたしはウェブサイトの連載を愛読している。

 
肉屋。いろいろ買ってきた。
 
夜。
ハヤテのごとく!」(2007)第8話まで観る。子供向けアニメを喜んで観ているわたし…。軽くてサクサク観られるな。こういうバカバカしいアニメを望んでいました。

家族で近江湖北を巡る

この秋いちど紅葉を見てこようと、家族で近江孤篷庵というところへ行ってきました。九時くらいに家を出、東海北陸道名神北陸道を経由、長浜ICで下りて、計1時間40分くらいでしたでしょうか。小堀遠州ゆかりの寺ということです。

駐車場のところにある、素盞烏命神社とやら。


田舎の景色を楽しみながら、のんびりと歩きます。


門を抜けて孤篷庵に入ります。


庭園があります。小堀遠州作庭というわけではなし。

ナデシコ

小堀家や家老たちの墓があるところを歩きます。

神社参道を歩いて車に戻ります。田舎の風景がとてもいい。
 
 
昼食は「道の駅 浅井三姉妹の郷」にて。

そばに自然薯を摺ったものをつけて食べるというのが、なかなかよかったです。なお、売店にて花豆が売っていたので、いそいそと購入。意外と花豆って売っていないんだよね。
 
 
まだ昼すぎなので、わたしが渡岸寺の国宝・十一面観音を観に行こうといい、そうすることになりました。道の駅から20分くらい。わたしもかつて二度訪れたことがあるのですが、何度も観る価値のあるものです。老母の話だと、亡き伯母はここの十一面観音がいちばん好きだったという。

寺は田舎にあります。



おだやかで、慈悲深い面持ちの観音様です。とてもよろしうございました。平安期の一木造りで、織田信長と浅井の戦いの兵火で伽藍が烏有に帰したときも、観音様は村人が土に埋めて守ったというもの。国宝は撮影できませんので、御覧になりたい方はこちらでどうぞ。
 
 
近江の秋があんまりすばらしいので、高速を使わずに一般道で帰ることにしました。途中、伊吹山の偉容に驚き、「道の駅 伊吹の里」に寄ってカメラに収めます。

少し引いて撮りました。美濃側(自宅の側)からとはまたちがった、ゴツゴツして迫力のある伊吹山です。

あたりの田舎景色もいい。
 
国道365号(これがよい)から国道21号に入り、あとは関ヶ原、大垣、岐阜といって三時過ぎに帰宅しました。渡岸寺から二時間あまりで、わりと近かったですね。計161.7km、秋の好日の湖北を満喫いたしました。