千葉雅也対談集『思弁的実在論と現代について』

祝日(秋分の日)。雨。
 
インターネットは散乱している。スタイルというものがない。インターネットと欲望。精神のホワイトノイズ化。
中心をどう作っていくか。さらに、「自然」とどう接続していくか。
 
軟体動物のようにダレ切っているわたくし。いや、すばらしい軟体動物に失礼だな。スライムのように液状化している笑。
Nil admirari といっていたのは鷗外だったな。しかし(?)、鷗外にはスタイルがあり、「知」もあり、詩もじつはあった。いま、それを統合している人間がどこに、どれだけいるというのだ?
 
 
鬱屈しているので、昼から強い雨の中、ドライブも兼ねて岐阜の大規模商業施設・マーサ21へ行ってくる。ここには本屋として丸善岐阜店が入っており、岐阜でいちばんの品揃え(75万冊)ということなのだが、何となくめんどうでいままで訪れたことがなかった。
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いやー、すごかった。これ、全部「思想・哲学書」ですよ。うれしくなっちゃったな。名古屋の大型書店にそれほど劣らないと思う。新しくて、知らぬ本ばかり。物理・数学書も、さすがに名古屋駅前のジュンク堂にはかなわないけれど、悪くない。ほんとうれしくって一時間くらいはいろいろ棚を眺めていたな。脳汁が出てきた笑。また来よう。
 購入書は、千葉雅也さんの対談集、河出書房の吉本さん(没後10年)を特集したムック、ちくま新書の『分析哲学講義』など。
 しかしこの棚を見ていると、県図書館の蔵書がいかに貧しいか痛感されて、泣きたくなる。市の図書館はいうにおよばず。まあ、そんなことをいっても仕方ないので、与えられた条件でやるしかない。
 
帰りはどしゃ降り(it pours)だった。そういうドライブも、また悪くない。
 
 
分析哲学講義』、パラパラ繰っていたらどうも既視感がある。とブログ検索してみたら、10年前に買って読んでるわ。昔書いていたもうひとつのブログに感想も書いてあって、ああ分析哲学そんな感じ、って思った。まあ、もう一度読み返そう。
 
千葉雅也さんの対談集を読む。こういう哲学って我々大衆には全然関係ないのがわかって草。てか、大衆にはこういう哲学は秘教 esoteric で、むずかしすぎる笑。でも、若者は哲学が好きなんだよなあ。それが何故なのか、我々はきちんと答えられないといけないわけだが。しかし、解析学でも代数学でもいいし、物理へ行って量子力学でもいいけれど、それを自分勝手に(?)理解して、それに自分の思い入れを畳み込んで哲学用語を塗して、へい一丁上がりってのがひとつの哲学製作法ってのは、身も蓋もないな。核が、自分の病的な実存的症状である場合も、たくさんあるし。個人個人でそれぞれ勝手なビョーキだから、これらは、「普遍的な真理の探究」なんてのからは、どんどんズレていくんだよね、それがいけないというのじゃ、全然ないけれど。哲学が、頭のいい人がやっている「中二病」的行為だってのは、かなりふつうだと思う。いっておくが、僕は千葉雅也さんはかなり好きだよん。

 
夜。
千葉雅也対談集『思弁的実在論と現代について』読了。やー、おもしろかった。ほんとオレって勉強してないし、頭悪いし、時代遅れだわ。何か、本書を読んでいると、書かれていることについて、こんなことはどうでもいいやとつい思っちゃうんだよね。まー、歳を取ったってだけのことかも知れない。
 本書は哲学専門的な第一部と、哲学者以外の人と喋っている第二部に分かれているけれど、自分には後者の方が圧倒的におもしろかったな。「イケメン論」なんかは、あまりに固有名詞を知らなすぎて苦しかったが(ファッション雑誌とか知らねーよ、誰だよ、亀梨和也って笑)。哲学、おもしれーけどマジどーでもいい。それが凡庸な人間の落ち着き先だな。人類の絶滅か知らんが、もうちょっとマジメに生きることを考えてくれよ、と言いたくなる。わ、マジ凡庸。
 
千葉さんの本、文庫化されているものはもっと読んでみようかな。

こともなし

曇。
夢。知らない人たちと、岐阜から鹿児島まで車で旅行(?)する。どうやら高速道路には乗らず、中国地方でやたらと道に迷い、なかなか先へ進まない。ホテルに泊まると、わたしの衣類の整理がだらしなく、恥ずかしい。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第四十一番 K.551 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラNML)。すごい。もっとも古典的な演奏。ブリュッヘン18世紀オーケストラは本格的な古楽器オケの濫觴だが、いまたくさんあるどの古楽器オケよりも古典的だな。わたしは好きだ。

 
雨になる。図書館。新着のところに、講談社文芸文庫藤澤清造随筆集が入っていた。ほぼ新刊。もちろん(?)西村賢太編ということだが、どう関わっていたのだろうな。借りなかったけれど。
 
帰りに餅信に寄ってマロン大福Premium と、栗生どらを購入。餅信はいつもながらお客さんで引きも切らずというところ、皆さんよく知っている。
 

 
www.youtube.com辻井伸行君によるショパンのバラード第一番。大げさなところのまるでない、しかもデリカシーとダイナミズムを苦もなく両立させた奇跡的な演奏だ。感情がきわめて自然に推移していく。
 
お八つにマロン大福Premium を食う。めっちゃおいしい。
暗い秋の日は落ち着くな。
 
 
澁澤龍彦の思考』という本を読み始める。著者は谷﨑龍彦という、なかなか豪奢な名前の人。「エクリチュール化した『私』」という、独自の観念を使って論じている。最近ではめずらしい、パラノイアックな文章だな。文体がもう少しダンディだともっとよいのだが。あと、主語と述語がうまく合わない文章があるので、編集者はもっときちんと読むべき。
 本書から澁澤の文章を孫引きする。

わたし自身は、同時に天使の方向動物の方向とに引き裂かれる自己をつねに意識している。わたしは自然を愛するから、動物になりたい。動物という大きな類観念のなかに、溶け込んでしまいたい。一方、わたしは精神性に惹かれるから、天使になりたい。足を地上から離してしまいたい。人間性とは、わたしには一つの空虚な先入見であるようにしか見えないのである。(p.23)

なるほど、みずからを言い得て妙である。わたしのことをいっておけば、澁澤よりは天使の方向に乏しいだろう、つまり彼ほどは観念を愛し得ない。凡庸な東洋人であるという感じがする。

 

 
夜。
「可愛いだけじゃない式守さん」第6話まで観る。特に何も起きないけど、慣れてきてちょっとおもしろくなってきた。和泉くんと式守さんのほのぼのカップル、なかなかいいじゃん。「不幸体質」の和泉くんがフェミニンでなさけない感じで、それを守る式守さんがカッコかわいいのね。なるほどー。そのうち新キャラが出てくるみたいで、それでどうなるかな。
 
深夜遅くまで YouTube で「よう実」動画を漁る。

こともなし

曇。
 
午前中、ごろごろぼーっと。
昼寝。
昨日今日と冷房を使っていない。
 
 
晴。県図書館。「新潮」誌の中沢さんの連載「精神の考古学」第10回を読む。さすがにむずかしくてなかなか理解できないが、読んでいるだけで幸福な気持ちになってくる。中沢さんの若い頃の著作『東方的』(1991)所収の論文「脳とマンダラ」に出てくる図(p.195)が、さらに深化されて出てきた。今日読んだ文章の注にもあったが、カナダの仏教学者ハーバート・ギュンターの固有名が、この連載にはよく出てくる。
 坂本龍一さんへの聞き書き連載も読む。坂本さんがいかにジャンル横断的に、世界的なミュージシャン、アーティストその他とコラボレーションしてきたかが窺えて、壮観といえばそうだ。それら交流が日常的なように描かれている。しかし、読んでいて、雑巾で顔を拭われたような気持ち悪さを覚えるのも確か。たぶん、坂本さんの内面、「魂」の記述が極少ないからだろう。
 しかし、こういう「気持ち悪さ」も、しばらくすれば解体されるように自分はなってきたな(いまのところ)と思う。わたしはわたしで、田舎の平凡人のささやかな「(心の)豊かさ」を追求していければいい。
 
時間があまりないので、ミスドでの読書はなし。帰りに肉屋へ寄る。


 

 
第608回:コロナ禍と自殺。の巻(雨宮処凛) | マガジン9

これを読んで、「自殺配信」が今や「誰にでもできるもの」になってしまっていることに驚いた。ユーストリームツイキャスで配信するのだ。女子中学生がマンションからの飛び降りを配信し、女子高生が駅での飛び込み自殺を配信する。

 
吉本隆明全集25』を読む。
 
早寝。

静的と動的、マンダラと回転 / カール・シュミット『政治的なものの概念』

曇。台風の吹き返し。
夢。中沢さんの下で、大学の先生と何かの調査をする。でも、その大学の先生が中沢さんとうまくいっていないことが、あとでわかる。
これは自分の中の話が比喩的に出ているのだと思う。「レンマ学」はアカデミズムを包摂する中身と射程をもっているけれど、わたしはとてもそうではない。
静的と動的、マンダラと回転、むずかしいことである。
 
レヴィ=ストロースに「冷たい社会」と「熱い社会」という区別があったと思うが、彼は前者に共感があったという。なるほど、という感じがする。「冷たい」という一見ネガティブな表現は、一種の皮肉であった、と。現代は動的で「熱い社会」だ。欲望を次々と捉えて、移動していく。欲望に陥ることにより仮想的な「自分」というものが生まれ、優越感と劣等感に陥り苛まれていく。絶えざる移動のため、コスモロジーが生成していかない。
 いまさら「冷たい社会」を回復することはできない。資本主義という「熱い社会」に、「冷たい社会」を接続していく必要がある。先の話と繋げれば、マンダラと回転の統合。それは創造性の回復でもある。「熱い社会」はポストモダンに陥り、本源的な創造性を喪った。
 

 
スーパー。
今日は26℃で随分と涼しい。やはり「暑さ寒さも彼岸まで」というのは正しいのかな。
 
昼からごろごろぼーっと。
 
 
カール・シュミット『政治的なものの概念』読了。さらに1933年版、1963年版を読んだ。わたしのごとき素人がさらっと読んでしっかりと理解できる本ではないが、読まないよりは遥かにマシであると思う。シュミットはナチスの桂冠法学者であり、政治とは敵・味方の区別であるという、有名なテーゼの唱導者だ。わたしにはシュミットのいう「敵」というのが具体的によくわからないのだが、シュミットのいう「敵」は「公敵」であり、個人的な敵などではないから、わからないのは当然のことであるといえる。敢て具体的にいってみれば、現在のウクライナ戦争におけるロシアが、我々の「公敵」ということになるのかも知れない。というのは、シュミットのいう「敵」は、具体的暴力や戦争と深く結びついていて、日本政府は現在ウクライナ戦争に加担し、ロシアと敵対しているから。つまりシュミット的にいうと、現在日本において「政治」とは、ウクライナ戦争である、ということになるのだろうか。それは果たして、実感的か?
 政治とは敵・味方の区別であるというのは、現在の日本では不思議な定義であるように思えてしまう。なんとなくいまの日本の「政治」とは、御用専門家+ネトウヨと、反政府的大衆がお互いに仮想電子空間などで、罵り合ったりしているだけのようにも見えるから。これが敵・味方? 政治家は思いつきの政策立案と SNS を気にする以外、いったい何をやっているのだろう。さらにいえば、政治は次第に「技術工学化*1」していっているようにも見える。シュミットの醸し出しているような、生臭さが失われていっているようにも思えるのだ。もっともそれは、狭い世間しか知らないわたしのような人間から見える限りの、日本の「政治」にすぎないわけであるが。

 
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夜。
「可愛いだけじゃない式守さん」第4話まで観る。
 
YouTube小林愛実のピアノを聴く。曲はシューマンのピアノ協奏曲 op.54 で、指揮は下野竜也NHK交響楽団。2022.2.5 のライブ録音。期限付き公開なので、ここには貼らない。小林愛実はほんとわたしと合うな。この人はいまどきめずらしく、深さのあるピアニストだ。「効果」を狙わない。そこが、古くさいといえば古くさい。そのことは、iPad のしょぼい音質でもよくわかる。なお、N響っていいオーケストラですね。昔は管が弱いっていわれたけれど、いまはそんなことない。ここでもオーボエなんか、いいなあって思いながら聴いていました。

こともなし

祝日(敬老の日)。曇。台風接近、風強し。
 
NML で音楽を聴く。■シューマンの「クライスレリアーナ」 op.16 で、ピアノはゲザ・アンダNMLCD)。■シューマン交響曲第四番 op.120 で、指揮はポール・パレー、デトロイト交響楽団NMLCD)。■カール・ラスムッセン(1947-)の「Solos and Shadows」で、演奏はアルディッティ弦楽四重奏団NML)。

弦楽四重奏曲

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昼寝。風雨強し。
 
カール・シュミットの「政治的なものの概念」(1932年版)を読む。 
『北京の秋』の続きを読む。「第一楽章」を読了。特に何もおもしろくない。おもしろくないのがおもしろいのかな。
ハスキルの弾くスカルラッティ ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十八番(ハスキル)
 
夜。
風呂に入っていたら外で強い風の音がゴーゴーいっている中、虫たちが平気で鳴いているのだった。
 
早寝。安永祖堂老師を読んで寝る。

山下裕二『商業美術家の逆襲』

日曜日。曇。
 
【第148回】性暴力を描く「#Me Too」時代の小説を読む|世の中ラボ|斎藤 美奈子|webちくま
斎藤美奈子らしい論説。「認識しているか否かの違いだけで、セクハラや性暴力はどこにでも日常的に存在する。」これは本当にそうだな。自分に男性の根源的な暴力性が存在するのはまちがいないように思える。これはわたしには人間の動物性ゆえのものであるとも思われるが、もしそうであるすると、我々は「本能」を正義によって抑圧せざるを得ないということだ。これは必須のことになっていくだろうし、そうあるべきだな。しかし、男女の関係がここまでむずかしい問題を孕んでいるとはわたしは若い頃ちっとも認識していなかったし、頭が古かったといわざるを得ない。時代は変わるのだ。
 
しかし、これと比べると、ってわけでもないが、一緒にサイトに掲載されている蓮實重彦文章はなんだ。やっぱり蓮實、だいぶ衰えたな。
 
 
人間ってどこへ行くんだろうねー。ネットだけで世間と接している狭い世界の人間=わたしは、不思議な気分になる。皆んな、何を考えて生きているんだろう。石牟礼さんは生きることそのものに無理があると仰っていたけれど、わたしもそんな感じがする。一切皆苦。人間は幻想の中で生きていて、それは苦痛なのだ。やはり、自然というリアルと切れてしまった我々は苦しいが、そのような自然を感受して生きるという生き方は、もはや古くさくて凡庸に感じられ、若い人たちの興味をあまり惹かない。若い人たちは、都会と人工性が好きなのだな。それはそれでわかる。人間は動物性を抑圧され、どこへ行くのだろう。「自己家畜化」という言葉すら、既にネガティブなコノテーションを持たずに使われ始めている。わたしには、それはディストピアにしか思えないが、管理され尽くしたディストピアの到来はこのままでは必至だ、というより既にある程度現実化しているといっていいだろう。
 
最大の快楽は何か。それは名利の心、名誉心、自己顕示欲、自己承認欲求が満たされることであろう。それは死のリアルすら超える恐ろしい幻想だ。我々はひたすらそれを目指す。その欲望を完全に破壊することは、本当にむずかしい。
 
真に凡庸な人間にあなどられようとも、見かけの凡庸さを恐れてはならない。もののわかった人間の表現は、理解できないか、凡庸であるか、どうしてもそういったことになる。もちろん、理解できなかったり、凡庸であればよいということでは全然ないが。沈むのだ。
 

 
ハイドンのピアノ・ソナタ第五十三番 バックハウスの美しい音! バックハウスの弾くハイドン す・ば・ら・し・い。胸のすくような演奏。
 
昼から米屋。柳ヶ瀬の老舗肉屋。
 
 
山下裕二『商業美術家の逆襲』読了。承前。やー、おもしろかったわ。わたしはどちらかというと(恥ずかしいことに)美術のアカデミズムの「権威主義」に親和的な眼をもっていると思うが、そのような「権威主義」が崩れるところの快感! 山下さんが強調しているけれど、しっかりと「自分の眼」で観るという楽しみが大切だ。だから、敢ていうと、自分の眼でいいと思えば、「権威主義」的な作品だっていいわけである。本書に「値段を意識してみる」という言葉があるが、これは決して悪いことではない。美術展にいったら、仮に自分でひとつ買うならどれにするか、と思って観るのはじつによいことだと思う。逆に、こんなつまらない作品に高値が付けられている、ということもあるわけで。本書に卓越した収集家としてキャバレー王・福富太郎という人が出てくるが、彼は決して金にあかせて美術品を買い漁ったわけではないとある。じつに興味深い人だ。わたしには見当もつかないが、いま、日本人で優れた美術収集家ってのは、誰なんだろうな。バブル経済の頃、大企業がゴッホを大金で買って、倉庫に放っておいたというエピソードがあるが、いかにも「美」というものに弱い現代の日本人を象徴していると思う。田舎者なんだ。て、ま、わたしのごときビンボな田舎者の、いうべきこっちゃないけれどね。恥ずかしいです。

白洲正子さんに小林秀雄が骨董の「値段をつけてみろ」というのがほんとに怖かったと、白洲さんは書いていたな。ま、とてもそういう世界は、わたしは知らないのだが。せいぜい、田舎に巡回してくる乏しい展覧会を、たまに観にいくくらいのわたしである。
 
正直なところ、わたしは若い頃にいい日本画をあまりたくさん見ていないのだよね。日本画の意欲的な展覧会もまだほとんどなかったし、美術館の常設展示もいいものが少なかった。そういう意味で、残念ながら日本画を観る眼は弱いと思っている。
 

 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十四番 K.491 で、ピアノと指揮はゲザ・アンダ、カメラータ・ザルツブルクNMLCD)。
 
夕飯は「敬老の日」(の前祝い?)というよくわからない理由で、老舗肉屋で買ってきた飛騨牛のランプ・ステーキ。老母がうまく焼くようになったので、充分においしかった。サーロインのいいものは霜降りすぎて脂っぽく、わたしはこちらの方が肉の味がよくして好き。もちろん塩と胡椒で食うのですよ。まさに年に数回の、ささやかな贅沢。
 
 
夜。
「鎌倉殿の13人」はひどいことになってるな。
 
NHK+で本放送から30分遅れで、NHKスペシャル中流危機”を越えて 「第1回 企業依存を抜け出せるか」を観る。絶望的な話だった。この30年で日本社会の「中流階層」は崩壊した。そのわかりやすいデータとして挙げられていたのが年収の中央値で、その値は30年間で500万円から370万円へ、130万円減少している。日本社会はバブル崩壊後に、賃金は下がっても雇用を守る方向に舵を切った、と。その他、現状認識としては、企業の業績低下→賃金の削減→個人消費の低迷→モノが売れない→企業の業績低下、という負のスパイラルなど、おおよそ知った話だった。
 ただ、そこで出てきた「企業依存」という言葉、これはあまり見ないものだったと思う。つまり、これからは、雇用を守ることを企業に求めるな。人生設計を企業に任せるのではなく、個々人の能力アップと新しい成長分野(成長企業)への移行はひとりひとり、個人でやれ、企業に頼るな。で、セイフティネットは政府が張れ。ただし、成長企業がどこから湧いて出てくるかは知らない、能力の高い人に積極的にスキル投資し、イノベーションを起こしてもらおう、ってな話だった。おもしろいのは若い労働者へのアンケート結果で、彼らの半分がいまだ終身雇用を望んでいる。
 さて、これがどうなのか、わたしなんぞにわかるわけがない。
 
ちょっと思うのだが、日本の得意だった「モノづくり」というのが、IT化と経済のグローバル化で、大きく変わってしまったのだな。「モノづくり」の狭くてひどく深い(いわば職人芸の)世界が、浅く広くなってしまった感がある。日本企業は、そのトレンドに乗り切れなかった、のか。

こともなし

曇。
横が「くの字」型に飛び出ている透明なケースに、小さくて赤いコーン状の物体を最大充填しようとする夢を観る。何の意味がある夢?
 
渡辺省亭展の展覧会図録は買っていないようだな。見直してみようと思ったのだが、残念。
省亭の作品は外国人に好まれ、多くが海外流出しているという。
 
リニューアルしたスーパーへ。混雑。商品の配置が変わったので、慣れるまでどこに何があるのかわかりにくいな。ひさしぶりなのでいろいろとたくさん購入。
 
 
夕方まで長時間昼寝。
 
日没前、散歩。曇って暗い中を、30分あまり歩く。









無意識を涵養する。
あちこちに彼岸花の勢力が進捗している。温暖化の気候に合うのかな。
 
夜。
「カノジョも彼女」は恥ずかしすぎて挫折。
「可愛いだけじゃない式守さん」(2022)第2話まで観る。
 
ボリス・ヴィアン『北京の秋』を読み始める。野崎歓訳。