こともなし

晴。
 
うとうとしながら内田光子の弾くモーツァルトの初期ソナタ(第一番〜第六番、NML)を流しっぱなしにしていたのだが、聴くともなく聴いているうち、惹きつけられている自分を見出した。内田のモーツァルトは前はどちらかというと苦手だったのだが、どことなく「パラノ」的で、広く深い射程、ゴツゴツした知的な演奏、なるほど高く評価されるわけだ。「自然」な、流麗なモーツァルトからは程遠いもので、そこらが苦手だったのか。一、四、六番あたりが特によかったかな。第六番はモーツァルトの力作です。
 
 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。アップル+ブレンドコーヒー429円。アップル、食べたことなかったけれど、おいしい。アップルパイの中身を、エンゼルクリームとかの皮の中に入れたもの。これ、もっと出してくれていいのに。
 山下裕二さんの『商業美術家の逆襲』を読み始める。山下さんの本は赤瀬川原平さんとの『日本美術応援団』のときからおもしろくないものがないが、本書もめっちゃおもしろい。第一部(第一章〜第三章)は江戸の美意識を受け継いだ名匠ながら、いまだに美術としてあまり評価されているとはいえない、渡辺省亭、鏑木清方、柴田是真、小村雪岱を取り上げている。特に、トップバッターとして力を込めて紹介されているのが、渡辺省亭だ。わたしも 2021.7.10 に、「渡辺省亭―欧米を魅了した花鳥画」展を観にわざわざ(愛知県の)岡崎まで行って、堪能してきたので、山下さんの気持ちはよくわかる。というか、この展覧会自体、たぶん山下さんが関わっていたのだよね。渡辺省亭ほどの人がほぼ忘れられていたというのは驚きだが、省亭が権威主義的な明治画壇から(意図的に)離れていたので、忘れられたのだろうということだ。実際、現在でも、横山大観あたりが一流とされる評価軸では、省亭が忘れ去られるのは当然という気がする。日本画私見だが、平山郁夫東山魁夷なんかは凡庸で、そういう中で我々のようなふつうの人が日本画がわからなくなってしまうのも、無理はない。

こともなし

晴。
精神的にちょっと不調なのでさっさと寝るのだが、寝過ぎなのかも知れないな。禅僧などは、四時間くらいしか寝ないそうだ。睡眠時にいた領域と起きてからの領域は繋がれなくてはならないけれど、それに時間がかかりすぎる気もするし。
 
たまに Windows を使おうとすると大量の Windows Update でジャマされるという。これ、自動更新を無効にする方法はないのかな。
調べてみた。方法はあるけれど、完全に無効にするのはかなり面倒くさいようだ。
 
ウェーベルンの室内楽曲集 といってもめずらしい曲ばかり。ウェーベルンは(若書きでも)清潔で、鬱鬱しているときには BGM にぴったりかも知れない。ベルクの九つの短い小品
 
 
曇。夕方、散歩。脚がなまっているなあ。いつものごとく平凡写真。




ニラは強い。

藻の花。

白い彼岸花







ザクロ(柘榴)。


年々増える耕作放棄地。年寄りが百姓をやらなく(やれなく)なるとこうなる。まわりの土地は迷惑。しかし、風景が荒れたといえばそうだが、自然といえばこれが自然なのだよね。耕作放棄地でも(ゆえに?)、虫の声は大きい。
 
夜。
「カノジョも彼女」(2021)第2話まで観る。これは恥ずかしすぎてシンドイな…。

こともなし

晴。九月も半ばだというのに暑い。
 
マックスバリュ。ウチで夏野菜が穫れなくなってきたので、キュウリなんかを買ったり。うどんに添える出来合いの天ぷらがあらず。
肉屋。
 
部屋でダラダラしているので体がなまって仕方がない。歩けるような気温に早くなってくれ。
 
 
昼から定期点検のためネッツトヨタへ。待っている間、藤本和子さんのエッセイ集『イリノイ遠景近景』を読む。洒落ていてめっちゃおもしろくて、何箇所かで笑った。なかなか知性のしっぽを見せないのも粋で、それがまた優れた知性の証拠なんだろうな。

一時間ほど待つ。今回はオイル交換のみ。
 
返却すべき本を誤って延滞していたので、図書館へ返却にいく。なぜか休館日だったので、ブックポストに放り込んでおいた。
あーなんかかったるいな。
 
夜、中沢さんを読んで寝る。早寝。

高橋英夫『わが読書散歩』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十一番 op.53 で、ピアノはスティーヴン・コヴァセヴィチ(NMLCD)。■モーツァルトのフルート協奏曲第一番 K.313 で、フルートはエマニュエル・パユ、指揮はクラウディオ・アバドベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。

松村禎三交響曲第一番で、指揮は野平一郎、オーケストラ・ニッポニカ(NMLCD)。古くさくて、暗くて、行き詰まっている日本。■藤倉大の「アンペール - ピアノと管弦楽のための協奏曲」で、ピアノは小川典子、指揮はティエリー・フィッシャー、名古屋フィルハーモニー交響楽団NML)。

 
 
昼からミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。ストロベリーカスタードフレンチ+ブレンドコーヒー440円。『コレクション瀧口修造7』の続き。瀧口修造を読んでいるのは「なんとなく」で、反省的意識がそうさせているのではないが、敢て「理性的反省」をしてみると、この「芸術」ではなく、アートの時代に瀧口修造を読むというアナクロニズムとは何なのかと、ちょっと苦笑したくならないでもない。でもまあ、それは敢ていえば、であり、これからも「なんとなく」瀧口修造を読むのだと思う。さらに敢ていえば、ここには個人的に掘り下げるものがあるのだ。
 瀧口修造というとシュルレアリスムがひとつの「名刺」であると思うが、本書で瀧口は日本におけるシュルレアリスムというものの「奇形性」(瀧口がそういう言葉を使っているわけではない)を何度も指摘している。ヨーロッパにあってはシュルレアリスムルネサンス以降近代絵画の強固な写実性に対し、人間性のさらなる奥深い探求として現れてきたものであるが、日本には当然ながらその文脈はなく、西洋模倣のひとつとしてエコールが人工的に移植されたものになっている。それは「観念」(ヨーロッパにおいては必要に迫られたものであったが)の輸入といってもいいが、日本にはもとよりそのような「観念性」、言葉の支配はなかったわけであり、その点でいまの「アートの時代」になっても、あまり変わっていないのではないかという気がする。いまでは西洋の「アート」にもそのような大きな観念性は乏しく(ポストモダン)、エコールというものもなくなり、それを日本に「輸入する」ということもなくなった。話を大きくすれば、文化全般にわたってそのような「輸入屋」は必要なくなったのであり、浅田さんが冗談っぽくやってみせたノリなどが、最後になっているわけであろうか。
 アートということでいうと。シュルレアリスムはある種の「深さ」を求めたのであるが、現代のアートの深さの拒否、「効果」の追求を思えば、シュルレアリスムなどの、人間性の追求が滅びたのも当然であるように思える。我々は、ぐらぐらする非常に弱い土台の上に、おしゃれでクールでスマートな建築を載っけている感が否めないが、もうそのような流れは止まらないのであろうか。ということ自体、既に田舎者の感慨であるのかも知れないが。 
気温はまだ35℃ある。帰りにカルコスに寄る。ちくま文庫新刊の藤本和子さん、河出文庫二階堂奥歯など購入。前回なかった岩波文庫カール・シュミットがなぜか再入荷(ネットで買わなくてよかった)、あとは中公新書の『日本アニメ史』で、こんな本が出ていたのか。
 
 
夜。
図書館から借りてきた、高橋英夫『わが読書散歩』(2001)読了。高橋さんは2019年没、死因は老衰ということで、2013年以降、著書が出ていない。わたしはかつて、こういう古典的な文章だけ読んでいたい人だったのだが、随分遠いところまで来てしまった。コクのある文章とでもいうのか知らん。高橋さんは、手塚富雄の弟子だったのだな。じつに往時茫々、遥か彼方という感じがする。ほんと、古くさいものばかり読んでいたわたしだった。こういうのを読んでいると、自分の学がないことがつくづくわかる。そういうのは、若い頃に無理にでも身につけておかないと、一生身につくことはないのだということが、いまではよくわかる。

川上未映子『あこがれ』 / 「輪るピングドラム」(2011)を観る

晴。
 
昨日のノシメマダラメイガの幼虫は、紙の上に米を広げて、結局老母が 9匹かそこら見つけた。あとは米を研ぐときに気をつけるしかないということになる。今までのは、たぶんタンパク質として摂取しちまったにちがいない笑。米櫃は外に干す。
 
中沢さんを読む。
ごろごろ。
 
NML で音楽を聴く。■ブラームスのヴァイオリン協奏曲 op.77 で、ヴァイオリンはクリスチャン・フェラス、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。1964年録音。ヴァイオリン、指揮ともに圧倒的な射程をもった、最高レヴェルの演奏だ。申し分ない。

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲

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ショスタコーヴィチのチェロ・ソナタ op.40 で、チェロはマイケ・ラーデマーケルス、ピアノはマタイス・フェルスホール(NML)。すばらしい。ひさしぶりに室内楽を聴いて興奮した。それほどよく演奏される曲ではないと思うが、この曲が聴くべきであることを演奏が証明している。チェロとピアノの息もぴったりで、特にピアノに目の覚めるようなところがあることを特筆しておきたい。 
珈琲工房ひぐち北一色店。飲み物、500円になっていたのだな。いつもコーヒーチケットなので、気づかなかった。
『コレクション瀧口修造7』の続きを読む。
 
 
図書館から借りてきた、川上未映子『あこがれ』(2015)読了。繊細な小説。小学生の麦くんとヘガティーちゃんの、これはラブストーリー未満のラブストーリーなのかな。二篇で、それぞれが主人公になってる。この年頃だとふつうは女の子の方がマセているものだけれど、ここでは麦くんの方が落ち着いている感じ。 
 
夜。
youtu.be
 

 
輪るピングドラム」(2011)第24話(最終話)まで観る。傑作。非常にクセが強く、わたしがこれまで観たアニメの中で、もっとも作家性の強いそれだと思う。誰かが「90年代的な想像力の結晶」とかいっていたけれど、まあそういうものなのかな。確かに、地下鉄サリン事件(1995)とか「透明な存在」(1997)とかは、いまの若い人たちには通じないだろう。(しかし、「何者にもなれない」とか「生存戦略」とかいうセリフは、むしろいまに通じるのか。)わたしはアニメにどちらかというと下らないものを求めているのだけれど、これはエンタメアニメの枠内でありながら、わたくし的にはちょっと「下らないアニメ」とはいえないかも知れないな。OP や ED のセンスもとてもよく、いちども飛ばさずに観た。監督は幾原邦彦

こともなし

日曜日。晴。
 
マックスバリュ。高めの国産牛かたまりを買ってみる。
 
昼ごはんを食べて(三日と空けぬ半田めん)、暗い部屋でずっと何もせず転がっている。
モズがジジジジジと高鳴きをしている。縄張り宣言である。
 
NML で音楽を聴く。■ショパンのピアノ・ソナタ第二番 op.35 で、ピアノは根岸由起(NML)。

Enigma

Enigma

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■ニコライ・カプースチン(1937-2020)のピアノ・ソナタ第一番 op.39 「ソナタ・ファンタジー」で、ピアノは根岸由起(NML)。ちょっと荒っぽいがエモーショナルなピアノ。
 
米を研いでいたら、小さな白い虫が二匹いた。げっ、ノシメマダラメイガの幼虫?
 
 
日没前、30分ほど散歩。ようやく散歩できるくらいの気温になってきたな。六、七、八月と、ほとんど散歩できなかった。






もう彼岸花か。
 
夜。
シューベルトの幻想曲 ヘ短調

山崎佳代子『そこから青い闇がささやき』

晴。
 
蝉がパッタリ鳴かなくなった。
 
何もしない。
昼寝。
 
 
山崎佳代子『そこから青い闇がささやき』読了。承前。戦時の民衆の言葉。第VI章「あどけない話」を、鼻をぐずぐずさせながら読む。1999年、78日間続いた NATO空爆下で書かれた文章。

しかし、そもそも戦争こそ誤りではないか。地上のどこに、爆弾を落としていい場所があるのか。戦争とは、命を奪い、人々の生活につながる場所を力ずくで破壊すること。誰にそれが許されるのか。大きな力は大きな嘘をつき、小さな力は小さな嘘をつく。いくつもの嘘が重ねられて、戦争は生み出される。そして子供たちは裏切られる。これまでに、千人以上の命が消えていった。(p.172)

しかし我々は愚かだ。わたしもここで流した涙を忘れるのに、どれくらいの時間で済ますだろう。偽善者でいられずに済む人間は少ない。この偽りの、日本の言論空間、電子的仮想空間。我々はそれにどっぷり浸かり、日々むなしい言葉を量産している。存在しない方がマシかも知れないような書物で、書店は埋め尽くされてはいないのか。インターネットのどこに、弱くてじつは強い詩があるだろう。

山崎佳代子『ベオグラード日誌』 - オベリスク備忘録 2019.11.3
 

 
言葉の無力さにもういちど向かいあうしかない…東浩紀『忘却にあらがう』刊行記念エッセイを特別公開|朝日新聞出版さんぽ|note

でもほんとうは、さきほども記したように、そもそも批判なんてたいていが無力なものなのだ。無力を恐れていてはそもそもなにもできない。言葉は届かない。だれにも理解されない。世界をなにも良くしない。それでもそこから出発するしかない。

 
高橋英夫『わが読書散歩』を読み始める。
 
夜。
中秋の名月の筈だが、雲が出て何も見えず。
 
中沢さんの『レンマ学』を読む。