最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』

曇。蒸し暑い。
 
中沢さんを読んで昼寝。
バカになりすぎて困る。反省する。
 
カルコス。ちくま学芸文庫×2と最果タヒさんのエッセイ集を購入。
 
ウチのアジサイブーゲンビリア


 
最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』読了。エッセイ集。

 
夜。
「着せ恋」(『その着せ替え人形は恋をする』)にハマリすぎて既刊三周くらいする。いやー、ほんと最近バカになりすぎてるわ。そもそもアニメ版がすごく話題になっていて、それで原作を読んだのだが、YouTube でアニメ関連動画を観ていると、原作が好きすぎてアニメは観られないかもと思う。アニメは原作に忠実らしくて、評価高いのだけれどねー。原作に中毒性がありすぎるのがいかんのだ笑。
 しかし、いまのエンタメ、すごいな。快楽中枢にピンポイントで来る。脳汁が出るという表現があるが、まさにそれ。しかしまさか、コスプレラブコメにハマるとは。実際のレイヤー(コスプレイヤーの略)は全然好きでないし、だいたい、固有名として認識しているレイヤーはえなこくらいのわたしなんだが。このマンガ、絵がめっちゃ綺麗で中毒性があるのだよね。五条くんとまりんカップルもウブすぎてツボ。

こともなし

日曜日。晴。暑い。
 
昼前、妹夫婦と下の甥っ子が来る。
下の甥っ子の勉強を見る。老両親は妹に、スマホの操作を習う。
 
夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。毎回胸糞展開だなあ。さすがは三谷幸喜といっていいのかなあ。悲劇というよりも、ほんと胸糞悪い。
 今回では、自分は分不相応なことをしているのではないか、伊豆の昔に無性に帰りたくなる、と時政が範頼にいう台詞が胸にきた。まあ、何でもないシーンではあるが。
 
平田精耕老師を読んで寝る。

こともなし

曇。
 
スーパー。土曜日は五倍ポイントの日。
 
ごろごろダラダラする。ぼーっとする。
 
昼食に焼きそばを作る。肉が足りないので、ちくわを入れる。
 
米屋。餃子の王将
雨になる。
 
NML で音楽を聴く。■シューマン交響曲第三番 op.97 で、指揮はアンドレ・クリュイタンス、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NML)。よい。クリュイタンスってあまり聴いたことがないのだけれど、2020.4.16 でもベルリン・フィルとのベートーヴェンで感心している。もっと聴いてもよいのかも。

ウェーベルン交響曲 op.21 で、指揮はハインツ・ホリガーローザンヌ室内管弦楽団NML)。

モーツァルトの子供の時のピアノ曲

こともなし

曇。
 
酒屋。プレミアムモルツ 350ml を1ケース買ってくる。
肉屋。安くて賞味期限が今日までのか、もっと先までのものかで迷う。後者を選択。
 
 
老父がボランティアの関係で、LINE が必要になったという。まあ、いまのご時世もあり、家族でスマホデビューしようかということで、近所の SOFTBANK の店へ。話を聞いてみると、今までガラケーを使っていた老父母はこれまでよりも安い金額でスマホに替えられるらしいが、ガラケーすらもっていないわたしは、随分と高い使用料を毎月払わねばならないらしい。別にわたしはスマホを使う必要のない生活なので、大金(笑)をドブへ捨てるようなものである。つーことで、わたしのスマホデビューはなし。老両親のみということになる。
 で、ウチへ二台のスマホを持ち帰ってきて、メールの設定をしようと思ったのだが、android はどうもよくわからん。ははあ、メーラーGmail アプリで、いままでのメールアドレスを使うにはメーラーにアカウントを追加せねばならぬのだなと見当がついたが、両親ともパスワードがわからず、詰む笑。じゃあ Google アカウント用のメアドでやったらといったのだけれど、何かショートメール(?)を使うとかいっているので、放ってあります。前途多難だなあ。両親とも電話は掛けられるようになったみたいで、二人で掛け合っているところ笑。
 

 
日本人にかかる性淘汰圧と、その行方を想像する - シロクマの屑籠
「世の中の理不尽さ」や「不都合な真実」を強調して、それでどうするの?(読書メモ:『ただしさに殺されないために』) - 道徳的動物日記
ベンジャミン・クリッツァー氏がシロクマ先生(熊代亨氏)を殴っている。この「告ハラ(告白ハラスメント)」や「ぬいペニ(ぬいぐるみペニス)」問題自体も非常に興味深いが、わたしは自分にガールフレンドができるとか、結婚できるとかは既に思っていない、いわば「負け組」たることを内面化しているおっさんなので、これに関しては半分他人事である。また、わたしはベンジャミン・クリッツァー氏の書くものが全然好きではないが、まあしかし、優秀な若い人が何を考えているかとしてはとても興味深いので、ブログも流し読みながら、いつも目を通している。ここでちょっとだけ指摘したいのは、クリッツァー氏がいつも「理論」「ロジック」でものを書くといっていることについて。クリッツァー氏はこれに関し、非常にナイーブだ。もちろん、ロジックでものを書くのはよい、というかすばらしい。でも、「感情」とか「レトリック」抜きで文章を書くことは不可能である。てか、この文章、クリッツァー氏はものすごくむかついて書いているよね。この文章が怒りでドライブされているのは明白だと、わたしは思う。もちろんこれはわたしの独断で、エビデンスで証明できるようなことではなく、その意味でこのわたしの文章は科学的でない。まあ、怒ってはいてもロジカルに書こうとされているのかも知れず、そういう態度こそ重要だ、ということはあるだろう。しかし、わたしはクリッツァー氏の腐すシロクマ先生の文章の方が、クリッツァー氏のこの文章よりは「感情」に流されずに書いているように見えるんだけどね。
 なお、わたしのことはどうでもいいのだけれど、わたしは現代における「感情」の扱いが、非常に幼稚になっているという考えをもっている。感情そのものも、幼稚で浅いのだ。クリッツァー氏はその典型であるとわたしは思うし、氏の文章が好きではないというのは、そこにある。もっとも、わたしは「深い感情」という非科学的なものに重きを置く自分の文章が「伝わらない」ことはわかっているし、自分の「意見」が「読まれるべき」なら、ロジカルに書くべきだというクリッツァー氏の考えには賛成する。

こともなし

曇。
夜ふかししたので眠い。
 
スーパー。
 
民主主義って何だろう? 大胆にも、宇野先生に聞いてみた。【前編】 | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
民主主義って何だろう? 大胆にも、宇野先生に聞いてみた。【後編】 | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス
これはすばらしい。しかし、ひとりで孤立しているような人間は、民主主義的でないということになるな。それに対しては、「ほんとにひとりで孤立している人間なんていないんですよ」という応答にたぶんなるのだと思うが、それは正しいと思うけれど、わたしは心から納得できるわけではない。どうして我々は、バラバラになっていく、アトム化するのか。他人と繋がっていこうという勇気がへたるのか。
 
コミュニケーションの暴力性というのを、もっと考えていかないとな。どうして我々は、他人にこうも暴力をふるいたいのか。どうしてこう、他人を傷つけるのは快楽なのか。
 
昼から県営プール。
 
眠くてうとうとしたりしていたら夕方だった。
 
夜。
魔法科高校の劣等生』第7話まで観る。なるほど、俺TUEEEか…。しかし、オレも恥ずかしいアニメに相当耐性がついたな。

「その着せ替え人形は恋をする」を読む

雨。
 
NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。リヒテル晩年の、一見そっけないような演奏。といっても、リヒテルはもともとイン・テンポの人だ。ロマンティックな気質をもっていながら、恣意的にテンポを動かすことをまずしない。心は我々凡人の遥か彼方にあって、しかしそれが何となく感じられるのは、不思議なものである。グレン・グールドリヒテルを「最強のコミュニケーター」と呼んだが、わかるようでもあり、謎のような言葉にも思える。

■バッハの無伴奏チェロ組曲第四番 BWV1010 で、バロック・チェロはダーヴィト・シュトロンベルク(NML)。バロック・チェロは運動性が低くて弾くのが大変そうだな。しかしそれゆえにか、抵抗感がよい結果に結びついている。■シューベルトアルペジオーネ・ソナタ D821 で、チェロはピーター・ウィスペルウェイフォルテピアノはパオロ・ジャコメッティNML)。現代最高のチェリストのひとりによるアルペジオーネ・ソナタだから、悪い筈がない。たぶんオリジナル楽器なのだろうが(わたしの耳でははっきりしたことはいえない)、技術的に楽々と弾かれている。気持ちもよく入っている。しかし、わたしにとってのこの曲の最高の聴かせどころは、終楽章の一瞬のピアノパートなんだよね。チェロはピチカート奏法で付けているだけのあの部分である。そこ、このフォルテピアノはかなりよかった。全体として、ヒョーロンカ的にいうなら名演といってもいいのだろう。この曲は、むずかしいよね。ちなみにわたしが過去の演奏を選ぶなら、ロストロポーヴィチのチェロにベンジャミン・ブリテンがピアノを受け持った録音を挙げたいと思う。件の部分では、ブリテンのピアノのあまりの美しさに、そのあとロストロポーヴィチのチェロが入りそこなっているのがまざまざと聴ける。 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。『コレクション瀧口修造2』「画家の沈黙の部分」を読み終える。
 

 
『その着せ替え人形は恋をする』第8巻まで読む。わー、神マンガだった! 陰キャ主人公の五条くん(家業で雛人形作りをしている)が、同級生一の美形ギャルの海夢(まりん)にコスプレ衣装を作っているうちに仲良くなっちゃうってな話なんだけれど、超ポジティブな展開で、じつに気持ちがいい。まあラブコメなんだけれど、ドロドロした嫉妬とかまったくなし。まりんのコスプレ愛がすごくて、マジメな五条くんと盛り上がっているのが二人ともかわいすぎる。しかし、作者の名前が男性っぽいのだが、ギャルの発想がリアルすぎて(ってオレは知らんが)、とてもそうとは思えない。純和風職人男子とギャルの組み合わせ、最高かよ。まりんはウブな五条くんを散々エロく挑発したりするのだが(なにせコスプレ衣装云々なので、その機会はいくらでもある笑)、中身は歳相応の女子高生で、少しずつ五条くんが心を開いてくれるのにいちいちドキドキしてるのもとってもいい。いやー、もう最高のフェアリーテイルでしょう。負けました。レンタルしてきたんだけど、買ってもいいくらい。しかし、自分が綺麗になるのに全力を尽くしてくれて、しかもその結果の姿を綺麗だといってくれるとか、そんな都合のいい陰キャ男子はおりません笑。そこが、作者が男性と思えないもうひとつの理由でもある。フェアリーテイルといったけれど、フェアリーはじつは五条くんなんだよね。
 
リピートしているうちに我慢できず、Kindle で第9巻(最新刊)を買う笑。

工学化する政治と日本型民主主義の最終形態

雨。
 
コヴァセヴィチの弾く「悲愴」ソナタ ソナタ第九番 ソナタ第十番
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏は東京クヮルテット(NMLCD)。
スカルラッティのソナタ集
 
昼から雨の中、イオンモール扶桑へ。江南のお囲い堤ロードの緑のトンネルが、雨に濡れて美しい。今日はグレン・グールドの弾くイギリス組曲を聴きながら。
 ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルフルーツ 北海道産メロン+ブレンドコーヒー473円。『コレクション瀧口修造2』「16の横顔」を読み終えて、「画家の沈黙の部分」に入る。これでようやく本書は半分くらいか。いつもとはちがった意味で、沈黙すべきであると思うが、まあわたしはいい加減な人間なので。そのうち行きたい「ミロ展」の、よい取っ掛かりとなる文章。岐阜県美術館が蒐めているルドン。たぶんわたしのひとつも観たことのない、イサム・ノグチ。なぜかポピュラー的な人気があるようにも見える、解き難い謎多きクレー。瀧口は何度も慎重に保留しつつ、クレーの画に「怒り」のようなものを見ている。

瀧口修造という迷宮は、いったいどこへ通じているのか。一時代のモダン(現代)美術の全領域を修めながら、深い夢の世界の奥に通路は消えていっている。わたしの見えるのはそこまでだ。
 
イギリス組曲第四番
 

 
夜。
アイザイア・バーリンの論文「マキアヴェッリの独創性」を読んだ。あいかわらずバーリン、めっちゃおもしろい。何故マキアヴェッリは、後世を混乱させ、あるいは憤激させるのか。何故マキアヴェッリは、これほど論争的であり、多様に解釈されるのか。バーリンのアプローチはおもしろい。わたしの理解したところでいえば、政治に必要なものは「異教的」ロジックであり、それはキリスト教的倫理と両立しない、むしろキリスト教的倫理を破壊する、という含蓄、それがマキアヴェッリの被る憤激の原因である、と。それはマキアヴェッリキリスト教を否定したということではない。個人の倫理的理想は、別にキリスト教的であってよい。我々は個人として、立派な、よき人であってよい。しかし、それは政治とは何の関係もない、とマキアヴェッリは主張する。というのが、バーリンマキアヴェッリ理解であると、わたしは読んだのだが、まあ単純化していますかね、バーリンの主張を。
 さらに、バーリンとは関係のない、しかしこの論文を読んでいて頭に浮かんできた妄想をちょっとだけ書いておこう。結局不勉強なわたしは政治などよくわからないのであるが、どうもいまの傾向として、わたしがずっと何となく思っていた政治、つまり暴力と道徳の混淆物であるところの政治という、幼稚素朴な政治観が、通用しなくなっている感じがする。その代わりに、「技術論としての政治」という傾向が強くなっているように思える。政治観として、前者は民衆的、素朴的であり、後者は学問的であるかのような。例えば、安倍元首相だ。我々安易な民衆的には、ウソで塗り固められた、強権アベ政治というイメージであり、学者的には、学問的な技術論の理解者としての安倍元首相、というイメージが対立してはいないだろうか。学者的には、政治は「暴力による権力」ではなく、最良の解決策を淡々と実行していく「工学者の技術」であるべきと、捉えられているのではないか。そこでは、理解なき愚かな民衆の意見など有害無益であり、民衆の下手な考えは学者の役にはまったく立たない、ということになっていると思う。つまり、政治に大衆は必要なく、特権的な知識をもつ学者エリートの成果物だけが有効であり、残るのは学者による大衆の「啓蒙」以外にはない、というわけだ。そして、我々愚かな民衆は、あるいはそれを認めざるを得ないのである。これは果たして、どういう世界なのだろうか。これが日本型民主主義の最終形態である、というわけか。
 いや、バーリンから遠いところまで来てしまったが。素人の妄想である。
 追記しておくが、わたしがいいたいのは、現在政治が技術論化、工学化しているという事実云々よりも、政治とはそうあるべきだという心理圧(=「空気」)が高まってきているのではないかということである。「啓蒙」によって、そのような「空気」を醸成すること。現在において、「大衆の啓蒙」の問題こそ考えるべきであるように、わたしには思われる。「啓蒙」の道具として、例えば新書本があり、ツイッターがあるのだ。