こともなし

晴。
エアコンで乾燥して、肌が少し痒い。
 
午前中は Ruby で過ぎる。魔であるエンコーディングの問題にハマり、Python とのちがいも含め、いろいろ調べる。僕のシステムは Linux Mint なのでエンコーディングは基本的に UTF-8 なのだが、Windows はいろいろややこしくて Shift_JIS とかレガシー(ここではよい意味でない)なことになっている。
 
 
曇。昼から珈琲工房ひぐち北一色店。『社会思想としてのクラシック音楽』の続き。第四章まで読む。本書は、どちらかといえば「社会思想」よりも「クラシック音楽」の方に重点がある本かも知れないな。あるいは、読むにはクラシック音楽にある程度の素養が必要というか。さらに、社会思想にしても、紋切り型ではなく、自分の頭で考えられることも必要かも知れない。まあ、それにしても滋味ある本だ。こういう本は、ますます希少価値となっていくだろう。
 
肉屋。
 
確かに概念は大切なものだ。しかし、君たちは概念に囚われすぎている。概念を知って、それですべてが切れると思ってしまう。
 
 
『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』の続き。嗚呼、一切皆苦(いっさいかいく)。伊藤さんのように、ありすぎるくらいあって渾身で生きてきても、わたしのように何もない(そうでもないか)これまでの生でも、直面するのはその真理だ。一切皆苦とは当たり前のことなのだ。
 本当に日々が速い。あっという間に過ぎていく。一月も半分をとっくに過ぎ、あと十日だ。ころがっているとすぐ飯の時間になる。もう飯かと思う。
 

 
夜。
録画しておいた、NHKスペシャル「中国新世紀 実験都市 深圳~メイド イン チャイナの行方」を観る。やはり思うのは日本の現状であるが…、都市の姿だけ見ても、東京とはだいぶちがうな。もちろんわたしは現在の東京をよく知っているとはいえないけれど、それでも東京がショボく感じられてしまう。だからどうということはないのだが。そもそも、東京から切り捨てられようとしている日本の地方の、さらに片隅に住む一般人のわたしに、いったい何がわかるというのか。
 印象的だったのは、中国企業はおしなべて共産党に対立することは許されず、むしろそれに迎合するというか、もう少し穏当にいうなら、党の意向、行く先をすばやく察知することがきわめて重要だということ。アリババですら、党の不興をかったらただでは済まなかった。
 
そういえば、本日付の朝日新聞朝刊に、梶谷先生へのインタビュー記事が載っていたな。梶谷先生は中国経済の専門家で、優秀で視野が広く、まともな学者だ。Nスペでもいっていたが、中国経済はいま転換点にあるようにも見える。深圳の発展も、飽和の状態に来ているらしい。そして、民主主義国家と中国の鋭い対立と共に、ますます一体化するグローバル経済。
 今日観たNスペでは扱っていなかったが、中国共産党テクノクラートは非常に優秀なようだ。それが果たして、どこまで共産党指導部、あるいは習近平個人の意向の「忖度」と両立していけるのか、ということもあるだろう。
 
ま、そんなこと、わたしごときが考えたって仕方がないのだが。

こともなし

曇。
 
スーパー。
 
昼寝。
 
寝ているかネットを見ているかという生活をしていると頭がおかしくなるので、本が買いたいというわけでもあまりないけれどカルコスへ行ってくる。『テヘランでロリータを読む』が(とっくに)文庫化されている筈だと探したが、なかった。以下、買った本は、すべて文庫か新書本。まずは高瀬正仁さんの『評伝 岡潔』「花の章」。これが書店で買えるありがたさを思う。岩波文庫新刊の『ナグ・ハマディ文書抄』は刊行を待っていた。棚に見つけたのは、中井久夫さんの『私の日本語雑記』。中井さんはあれほどの超人なのに知識人という自覚がまったくなく、潔いというのか、あっさりものを書かれなくなってしまった。本書も2010年刊行の文庫化。新書本では、スゴい本だと聞いていたので、中公新書の『サラ金の歴史』を。新書棚を見ていると、日本オワタ系のそれがいろいろと出ているな。それは当然だろうが、あまり買う気もしない。単行本では柄谷行人の『ニュー・アソシエーショニスト宣言』というのが棚にあったのでパラパラと立ち読みしてみたが、さほどの展望を感じずそのまま返した(この本、県図書館にあるようだ)。マンガのコーナーへ行ったら気持ちが悪くて吐きそうになってきたので、早々に退散。
 
風が冷たい。風花飛ぶ。
 
20220118164227
 
夜。
『私の日本語雑記』を読み始める。第八章まで読む。まったく、超人的だ、中井さんという人は。

こともなし

曇。
 
NML で音楽を聴く。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第六番 op.101 で、演奏はエルサレム四重奏団(NMLCD)。この曲、こんなだったか。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第七番 op.59-1 で、演奏はドーヴァー四重奏団(NMLCD)。どの楽章もすばらしかったが、特に終楽章が入魂の演奏。やはりベートーヴェンはちょっとちがうと思わせられる。もやもやが少しだけ晴れたかのような感じがする。
 
部屋に閉じ籠もり、本も読まず音楽も聴かず、ひたすらネットで人工的な下らないものや幼稚な意見を見聞きして心を穢して、ほとほとうんざりしている。自業自得ともいうべきか。
 
■バッハの無伴奏チェロ組曲第一番 BWV1007 で、チェロは藤原真理NML)。この曲集なら演奏家の全身全霊をかけてぶつかって欲しいようについ思ってしまうが、軽めの滋味あふれる舞曲として聴かせるやり方もあるのだと思わせられる。自分の実力と経験に自信をもった、余裕の演奏だ。

■バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、ピアノはピエトロ・ソラーチ(NMLMP3 DL)。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。鬱屈するが、まだおいしいコーヒーを飲めるだけ救いだ。
猪木先生の『社会思想としてのクラシック音楽』を読み始める。第二章まで読む。大家ってのはすごいもので、圧倒される。音楽を聴くということに関しても、的確で広く正確に聴いておられて、脱帽というしかない。最近はリベラルアーツという言葉が流行りだが、口だけのカス学者たちは本書を読んで恥じるべきだろう。しかしまあそんなことはいいので、本書はコワい本でもある。例えばクラシック音楽を聴くということに纏わるスノビズムなどもしっかり指摘してあったり。高級芸術が自分にはわかるんだというような、スノビズムである。私事だけれど、わたしにはもうそんなスノビズムはあんまりないと思うのだが、でも、ネットなどでまるで聴けてない、対象を理解していない表現を見るとあまりいい気持ちにはなれないところなど、まだまだだなと思う。
 本書の中身については全然書かなかったが、それこそわたしのレヴェルを超えているからね。もう少し読んで書くことができれば、また何かは。そういえば本書に、我々大衆は空疎で声の大きいだけ、あるいはエラソーなだけの人間に喜んでついていくこともさらりと指摘してあったっけ。
 
伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』を読む。九割笑、一割泣。アノニマスな語り口に限りなく近づいている。ふつうならこんなおもしろい本は一気に読んでしまうわたしであるが、パワーがありすぎて読み切れねえ。またあとで読む。

ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』

曇。寒い。
 
大垣。国道高架から見た、雪で覆われた伊吹山が見事だった。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー。温かいりんごパイが身に沁みる。
『資本主義だけ残った』第四章「資本主義とグローバリゼーションの相互作用」を読む。これはわたしに予備知識が足りなくて、かなりむずかしいな。著者はグローバリゼーションを基本的によいことと捉えているようだが、それは経済的な豊かさという観点からはそうなるだろう。グローバリゼーションが進むほど、世界はいろいろあっても、総体的に豊かな方向へ向かうことはわたしにも理解できる。はっきりとは述べられていないが、著者は定住ということにあまり価値を見出していないようだ。確かに、自分の故郷、自分の生まれ育ってきた土地というのは、この人工化した世界にあっては無意味なものになっている。土地というのは自然ということだが、自然から切り離された世界=グローバリゼーションということか。
 

 
昼からスーパー。
 
図書館から借りてきた、ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』読了。第五章(最終章)は「グローバル資本主義の未来」。未来への暗い予感を示す、説得的な記述が魅力的だ。まあそれにしても、本書のような中身のある本を、じつに手前勝手に読んでしまったものである。本書はいってみれば「米国型資本主義」を採るか、「中国型資本主義」を採るかという本だと読まれるだろうが、正直言ってわたしなんぞはそんなことにはあまり興味がない(こともないのだが、ここではそういっておこう)。第五章で展開されている記述の中でわたしにおもしろかったのは、我々の個人的な生活すべてが商品化されている、現在の(究極)段階の資本主義についてであった。これは別にいまさら新しい話ではなく、本章でもアダム・スミスとマンデヴィルを対比した時点から記述されていて、敢て書き込んである。つまりは、著者は人生のいろんなことをよく知った、深みのある学者なのだ。我々は既にセックスも子育ても人付き合いも娯楽も毎日の食事も、日々の個人生活を(経済合理性を以て計量するという意味で)「商品化」していて、それは若い世代ほど顕著である。自分の生活自体が究極の商品、「工場」であるのだと。それは、米国であろうが中国であろうが、日本であろうが同じことだ。そして、大多数の人がそこから出られないし、出るつもりもない。我々は生活のすべてを商品化、合理化して、いったいどこへ行くのだろう、というのは、わたしがネットを見ていて日々痛感するところである。――しかし、本書の敢てそんなところに反応しなくてもよいかも知れないが。
 本書の「正しい」読み方は、以前にリンクしておいた濱口先生や梶谷先生の文章を参考にされたい。しかし、もののよくわかった学者の好著は、わたしのような低レヴェルな者でも別様に楽しく読めるということである。

著者は、経済合理性が我々をアトム化、原子化することをよく理解している。それは生活の断片的商品化に直結する。わたし自身もそれを引き受けていることを感じずにはいない。
 
別の方に空想が及ぶ。わたしはいまの時代の「エンタメ」のあり方を随分不思議なように思っているのだが、これは一種の「感情の商品化」でもあろう。この時代のエンタメはすごいもんで、感動にうち震えたり涙を流したりするなんてことすらめずらしくも何ともない。それくらい、よくできている。そして、そこからあるいはつらい日常へ帰っていくのだ。勇気や元気をもらう、という言い方があるように。
 

 
夜。
宇宙よりも遠い場所』第8話まで観る。

こともなし

晴時々雪。積雪。
 
NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第五番 BWV1050 で、指揮はジャン=フランソワ・パイヤール、パイヤール室内管弦楽団NML)。

 
 
昼から TSUTAYA へ返却に。主要幹線道路の雪は融けていた。
 
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第八番 op.110 で、演奏はエルサレム四重奏団(NML)。ブラームス弦楽四重奏曲第一番 op.51-1 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NML)。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノはフー・ツォン(NML)。悪くない。フー・ツォンは初めて聴いた。力強い打鍵をもっているけれど、それはわたしは感心しなかった。しかし、抒情性というのかな、情感の表現はすばらしい。フー・ツォンは、一般にショパン弾きと見做されたようだ。2020年、新型コロナウィルス感染症により、86歳で死去。この録音は何歳の頃のものなのだろうか。

ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十一番 op.110 で、ピアノはフー・ツォン(NML)。これはすばらしい。第三十番ソナタよりも彼のスタイルに合っている。
 
夜。
モーツァルトの弦楽五重奏曲第四番 K.516 で、ヴィオラはハット・バイエルレ、プラジャーク・クヮルテット(NML)。辛口極まりないモーツァルト。プラジャークQがそういうゴリゴリ系なのか、それとも音の環境が大きく変わってしまったゆえなのか、低音がガリガリ響いて殴りつけるかのよう。でも、ゴリゴリ系のカルテットは好きなので、しんどかったが熱心に聴いた。しかし、「疾走する悲しみ」どころじゃないね。 
You Tube で「ずっと真夜中でいいのに。」聴いてる。
 
Eve キテるなあ。閲覧注意。

こともなし

曇。
夢。京都のどこかの小さな山。何十もの仏教の小さなお堂が点在し、山全面が黒い木道というか、テラスというのかで平面的に覆われている。わたしはそこを上からスキーのように滑空していく。お堂はポールのようなもので、それらを横目で見ながらわたしは次々とクリアしていく。
夢。何かの仏教法要が行われるため、わたしは祭壇の一部を担当し、漢文で何か書いてある仕掛けを作る。漢文の文章はわたしが熟考して拵えた。法要はすごい人出で、祭壇は広場の中央に置かれ、法要で祭壇が立体的に展開していく。わたしの担当した部分は地味で注目を浴びるわけではなかったが、重要な部分で、うまくいってわたしはホッとする。
 

 
昨晩『イタリア紀行』を読んでいて、「北方の博士」あるいは「北方の魔術師」 Magus in Norden と呼ばれたヨハン・ゲオルク・ハーマンという人がおもしろそうだと思ったのだが、日本語ではまるで読めないようだ。検索してもほぼ何も出てこないが、日本語の Wikipedia は書きかけであっても、予想外に詳しく、英語版と遜色ない。ドイツ語版はさすがに詳しそうだが、自分の語学力ではさらりと読むわけにいかないし。
 佶屈聱牙の文体といえば晩年の澁澤龍彦が愛読したサー・トマス・ブラウンも昔から何十年もずっと読んでみたいのだが、いまだに読んでいない。こちらは翻訳があるのだが、古書でたいへんに高価である。サー・トマス・ブラウンはそれほどマイナーでなく、ペンギン文庫版で出ているのをわたしも所有しているくらいで、それを読めばいいのだが、これもわたしの語学力を超えているんだよねえ。
 
ごろごろ。
 
『呪術廻戦』第17巻まで読む。おもしろい。しかし、戦いとか殺し合いとか「最強」とか、皆んな好きですなあ。まあ、皆んなじゃなくてわたくしか。
 
夜、雪。
吉本隆明全集19』を読む。これまで読んだことのない、短めの文章をいくつか読んでどれも感銘したが、特に「西村博美論」を読んで、西村博美って誰だ!とびっくりした。ネットで調べてみると、いまでもほぼ無名(というのは失礼か)の詩人であるが、わたしと同じく吉本さんのこの文章を読んで、実際に詩集を買った人の文章を見つけ、これもよかったのだった。さて、どうしたものか。
 
吉本さんがアニメやエンタメ映画を見て書いた、「幼児性の勝利」という文章は、わたしがこのブログに書いているようなことを、既にもっと正確に言ってしまっているなと感じた。吉本さんはこの「幼児性」を決して否定しているわけでない、わたしが下らないアニメを喜んで観ているその場所を、見抜いているのだ。やっぱり吉本さんだな、と思う。