大栗博司『探求する精神』

曇。

スーパー。

昼。
書庫(笑)の本棚を已むを得ず移動したりしていたので、元に戻す。棚がぶっ壊れて、木工用ボンドで接着。

ひさしぶりにカルコス。前回訪れてから一月以上か。学生の頃は毎日本屋へ行っていたのに、堕落したものだな。
ま、しかし、今日は買いたい本がいろいろあって、何冊か断念したくらい。柴田元幸訳の文庫版『ロード・ジム』とか、出ていたのを知らなかったので、やはり本屋には行ってみるものだと。あと、文庫本で、ちくま学芸、古典新訳、鈴木大拙河合隼雄先生など。新書本で大栗先生。けれども、買ったのはよいが、読書力が衰えてしまったので、どれだけ読めるかな。

先日、妹がもってきてくれたバームクーヘンでお茶。


大栗博司『探求する精神』読了。前にも書いたことがあるかしら。大栗先生は、わたしの高校の先輩であり、大学学部の先輩であり、同じ物理を学ばれた方である。わたしは高校生の頃だったら、まさに先生のようになりたいという夢をもっていた。だから、世界的な物理学者となられた先生のサクセスストーリーを読むことは、どうしても少しつらいところがあった。もしその点で比較するなら、先生とわたしのちがいは、まさに雲上人と地を這う虫ケラみたいなそれである。しかし、ではある。それほど自分を貶めることもない気がする。わたしはあの頃からしたら随分と遠いところまで来てしまったが、わたしの向かっているところは、(まだまだ残念ながら日々修行中だが)何の意味もない、ことはないかも知れない。世界最高峰の物理学者は、それなりに一定数存在しているが、わたしの向かい合っている領域は、本当にやっている人が少ないわりに、すべての人類に関係のあることだと自分で勝手に思っているから。そもそも、ほとんどの人間が、「地を這う虫ケラ」なんだからね。
 科学というのは、どこへ向かい、人間をどうしてしまうのか。科学者というのは、自分という主観的存在と、世界という客観的存在をはっきりと分けた上で存在する生き物である。しかし、わたしの探求しているのは、主客が合一した世界、主客未分の世界といってもよい。それは、主観と客観が截然と分離された科学者=主観から見たら、まったく理解不能なものだろう。(しかし、量子力学が確実に主客未分の世界に足を踏み入れているのは、わたしから見てもじつにおもしろい。)いまでは科学の教える客観法則の普遍性により、「自由意志の非存在」という、主観の消去とでもいえる方向に哲学が進もうとしていて、これはすごい世界だなと思う。実際に、自分の意志活動がすべて決定論的であるという哲学的見解すら、いまや特にラディカルでもない。それでも、自分を消してしまう(=自殺という意味ではない)ことはできないので、いかに自分が「決定論的機械」だといっても、親しい人が死ねば悲しいだろうし、自分の死ぬことがファンタジーだということもできまい(できる、という人がいるとすれば、それはへんな人だろう)。
 つまるところ、生きることの多くが苦痛だということは、人間が人間であるかぎり、いつまでも変わらない。その意味で、「地を這う虫ケラ」のレヴェルで人生=リアルを考えることは絶対に必要だ。わたしの向いている方向はそれである、とまあ、こんな感じで自己正当化してみたんですけどね。どうですかね、わけわからんですかね笑。