田中小実昌『バスにのって』

晴。

中沢さんの『レンマ学』を読み返す。とりあえず最初からと思って読み始めたら、冒頭の数十ページのたんなる導入部で、中身が濃すぎて沈没。わたくし、ほんとまだまだだなあ。
 中沢さんはもはや東洋だの西洋だのという区別を超えて、一般科学における「レンマ学」的事象の漸次的な解明からのインパクトを語っておられるが、これは文字どおりの意味の他に、もはや東洋において「レンマ学」的探求が極度に先細りになっているという絶望的な現実が背後にある気もした。そこから、一般科学への接続を試みようというのは、信じがたい力技である。まさに、これから数百年の射程を見据えた、絶望的な努力だ。いや、そんなセンチメンタルに考えるのはたぶんまちがっているのだろうが。
 しかし、本書は現代における新しい「大乗経典」と見做すことも無理ではないだろうし、わたしはそのような読み方から多大な果実を受け取っている。井筒先生のエラノス講演という、ひとつの東洋思想入門書をいま読み進めているのと、だいぶ響き合っている感じだ。
 とにかく、まだまだぶ厚い壁がある。突き抜けていない。


昼寝。起きたら暑い。

珈琲工房ひぐち北一色店。オカタケさんの『明日咲く言葉の種をまこう』の続き。クソ生意気なわたしなんかだと「名言集」とかついバカにしたくなる悪いところがあるが、著者の心にちゃんと響いた言葉たちなのだなということがよくわかる本だ。時には「それはちがうんじゃない」と思うところもあるが、わたしが正しいとはいえないしね。文学からの名言が主ということはないけれど、やっぱり文学をよく読んでおられる人の選であり、文章だと思う。上から目線だったらごめんなさい。

明日咲く言葉の種をまこう

明日咲く言葉の種をまこう

  • 作者:岡崎武志
  • 発売日: 2020/03/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
帰りに肉屋。

図書館から借りてきた、田中小実昌『バスにのって』読了。

バスにのって

バスにのって

 
池内紀モーツァルトとは何か』を読み始める。


解体され、白痴化していくわたし。読んでも見ても聴いても、瞬時に解体され、続けて読み、見、聴きすることが苦痛だ。これが、歳を取るということなのかなと思う。どれを読み、見、聴きしても、古いものも新しいものも、滅多に残るものがない。古い感性で充分で、新たな感性を開拓するまでもないし、そんなことを許してもくれない。
 何もかも退屈で、必死におもしろいものを探さねばならなくなって、初めて人生が始まったような気がすると、小林秀雄は随分と早い段階で書いていたと思う。わたしごときでも、その思いがよくわかる気がする。傲慢だろうか。
 いや、まだまだ修行の足りないわたしなんですけれどね。いま、吉本さんの晩年の本(『ハイ・イメージ論』)をテキトーにひっくり返しているのだが、ほんと、使い物にならない自分のレヴェルの低さを痛感する。インターネットなんかを見て、むかついていてどうすんだよって。
 しかし、わたしは本を読む力があまりないね。特に、下らない本を読む力がなくなった。あと、わかったようなことを書いている、わかっていない文章。わかるわからないって、それは何だと云われるかも知れないな。お前の書いているこれだって、そんなものじゃないの?とか。どうでもいいか。
 わたしの欲しているものは自分でわかっている。閉じていないものだ。窓が開いているものだ。わたしのスキルが上がれば、閉じたものでも対応できるかも知れないが。いやいや、傲慢なことをいうのはよそう。

『東洋哲学の構造』から、「4 東アジアの芸術と哲学における色彩の排除」「5 禅仏教における内部と外部」を読む。

世界を回転させる。