人生には意味がないという言葉遊びについて

日曜日。晴。

スーパー。

ウチでモズが二度目の子育てをしているらしい。今日、雛の鳴き声が聞こえたとのこと。ということは、先日巣に入っていったのは、抱卵するメスにオスが餌をもっていったのだ。いまも、二羽並んで電線に留まっていた。

長時間、昼寝。

なぜ人生には意味がないのか――野矢茂樹「解説」(中島義道『人生に生きる価値はない』、新潮文庫、2009年所収)より|山口尚|note
典型的な「言葉遊び」の哲学。言葉遊びの哲学がいけないというわけではない。さて、多くの人には、人生一般に意味がある、価値があるかどうかということよりも、「このわたし」が生きていて意味があるか、「このわたし」に生きる価値があるかということが重要なのではないか。それが、「人生」という言葉の言葉遊びで救われれば幸いというところである。わたしは、生きていて何の意味もない、価値もない自分というものをそのまま肯定することに、ひどく苦しんだので(いまもそれがゆるぎないものであるという自信はない)、「人生」という言葉をくるくる弄んでいられる人の幸福を、つくづく感じないわけにはいかない。


日没前、散歩。










いまほど歩いていてすばらしい季節は少ないだろう。暑くもなく、寒くもない。こんな季節は、長続きしない。

夜。
ブラームスの間奏曲集の CD を聴く。

10 Intermezzi

10 Intermezzi

  • アーティスト:J. Brahms
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: CD
若き天才によるピアノ。わたしを形作った一枚、というもののひとつであろう。

井筒俊彦『東洋哲学の構造』から、「3 禅仏教における意味と無意味」を読む。井筒先生流の、意味による禅的無意味の記述。