記号と現象

曇。

昨日某SNSを見ていて、それから既にフォローを外しているある有名知識人のタイムラインをひさしぶりに覗いてみた。また、別の、これもいまは読んでいない有名ブロガーのブログもついでに覗いてみた。異様な気持ち悪さを感じながら、いろいろ思った。日本人のかしこい人の文章は、何でこんなに気持ちが悪いのか。ま、「気持ちが悪い」というのはどうとでも取れる言葉で、また説明もむずかしい。こいつ、気に入らないのをただ disっているだけ、そっちの方が気持ち悪いわと思われるかも知れないし、あるいはそもそもオレはわたしはそんなことは感じないといわれる人がほとんどだろう。わたしもこれ以上明確化できない。だから何だであるな。

最近(日本の)ネットを見ていて強く思うこと。皆さんパズルを解く能力はすごく上がっていて、正直言ってわたしごときではついていけないことも少なくないのだが、自分で考える力はない。「自分で考える力が大事」といっている人も、同じく自分で考える力はない。わたしがここで「考える力」といっているのは、記号を調整する能力のことではない。わたしが「考える力がある」と思っている人は例えば吉本さんだが、いまや吉本さんは「何を言っているのかよくわからない人」(笑)と思われている。まあ、中沢さんでも、河合隼雄先生でも、井筒先生でもいいんだけれどね。記号の背後の現象を直接見ることができるかが、鍵だ。あるいは、記号と現象の区別がつくか。わたしが何をいっているのか、わけがわからないだろうなとも思うけれどね。

しかし、陳腐な話で申し訳ないが、いまや日本は何をやっても「先進国最低」ってのが当り前になってしまったな。何でなんだろ。まあ、「自分で考える力」も先進国最低ということはいえるのかも知れない。よく知らないが。

一般人の深い感情も、「先進国最低」なのかもな。深い感情が、ない。

世界は無限に多様な筈なのに、皆んな同じことばかり考えている。いまだと、PC(ポリティカル・コレクトネス)、アイデンティティ・ポリティクスの話ばかりだ。ネットのどこを見ても、フェミニズムと差別の問題。ま、わたしも人のことはいえないか笑。

それにしても、いまだ言語化されていない現象を言葉にしようと思ったら、わけのわからない文章になるに決まっているではないか。(本物の)詩がわけがわからないのは、当り前だ。すべてのわけがわからない文章が、書き手の頭の悪さを示しているとは限らない。それは読み手の能力次第なのだ。リアルな世界は、簡単に記号で覆えるとは限らないし、あなたたちが記号で覆えていると思っている「世界」も、それはたんに記号(あるいは意味)の集積にすぎなくて、世界そのものではない。

いや、記号も世界の一部ではあるんですけれどね。だから、秀才はまちがえるのだろうけどな。言語哲学者・井筒先生を読もーっと。

昼から、ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー418円。『武満徹著作集2』の続き。武満さん、ふだん家族と接するときはそうでもなかったらしいが、音楽も文章もじつにクソマジメな人だな。わたしもクソマジメなのだが、武満さんには到底及ばない笑。そんな武満さんが好きだ。吉田秀和さんはそういう、ユーモアのない武満の音楽は、すばらしいけれど疲れるというようなことをお書きになっていたが、結局吉田秀和さんには武満さんがわからなかったところがあると思う。まあ、そういう雲の上の高みの話はどうでもいいのであるが。わたしは武満さんのきびしくも静かな詩的文章が好きだ。武満さんの音楽は、その文章に似ている。あるいは、その音楽は文章と響き合っている。宇宙との交感 correspondence。そんな大仰な文字が、素直に当て嵌まってしまう。まさに、ひとつの世紀に何人というレヴェルの人だった。


帰りに三井山公園に寄って、散歩。







ここは鳥がたくさんいるな。あまり聞き慣れない囀りが聞かれるのだが、何だろう。ツバメも既に舞っている。

夜。
さくら荘のペットな彼女』第10話まで見る。