上間陽子『海をあげる』

晴。少し霞んでいるよう。

スーパー。

昼寝。


梶谷先生の本日付のブログエントリー「自然主義のソフトランディングのために―地動説から監視社会まで―」を読んだ。わたしのような不勉強な者にはとてもむずかしいが、むずかしいにしては著者の頭の明晰さにより、ちょっとはわかる。ダーウィニズムに代表される自然主義パースペクティブ=「理系的な立場」(とは先生は書いておられないが)と、リバタリアン的な自由意志論に代表される「文系的」な立場の対立を考え、現在、前者により後者が劣勢に立たされているという認識が語られている。わたしの粗雑な頭で暴力的に要約すれば、文系的な立場が立脚する「自由意志」が、科学の「因果的決定論」に脅かされている、ということかな。ゆえに、科学(ここではピンカーが代表している)がPC(ポリティカル・コレクトネス)などを重視する「文系的な立場」の基盤を掘り崩してしまう。そして、「自然主義」は社会学的には功利主義と結びつきやすいが、監視テクノロジーと結び付いた功利主義は、いま一部で実現されつつある「幸福な監視社会」(≒中国)を普遍化してしまう。それでよいのか? とでもいうことか知らん。
 先生は明らかに、「それはよろしくない」という立場ですね。だからそこで、「自然主義のソフトランディング」ということを考える。「理系的」な自然主義を、文系的な発想でマイルドにしていこうということかな。つまり、やっぱり「自由意志」はある程度救ってやらねばならない。そこでヒントとされているのがスピノザだが、わたしはそれは勉強不足で全然わからない。(ここがキモだろう、って?)
 わたしはバカな大衆なので、以上のようなむずかしいことはどうでもいいといえばどうでもいい。でも一方で、「幸福な監視社会」が日本でも、世界でも実現されてしまえば、大衆であろうが何であろうが逃げられないのだから、どうでもいいというのは愚かである。さてさて、わたしは「自由意志」について、先日ちょっとだけこのブログに書いた。

「自由意志」という言い方そのものが、既に筋が悪いのではないかな。意志は進化を突き動かす、盲目的な力だ。自由とはむしろ対立する。意志ってのはふつう「よい」ものとされているが、そうなのかねえ。

http://obelisk2.hatenablog.com/entry/2021/03/28/101241

わたしは、「意志」よりも「自由」が気になる。「自由」というものは確かに存在するが、まだわたしの満足するような議論は、かしこい文系学者たちの間でもなされていないように思える。でも、自分でもうまく言語化できない。わたしの「自由」のイメージは、例えばモーツァルトの音楽みたいなものだ。それ以上の説明ができないのであるが。
 ま、わたしごときがこんなことを考えても仕方がないのだけれど。

上間陽子『海をあげる』読了。エッセイ集ではないね。ノンフィクションではあるが、物語、私小説といってもいい。全篇、深い感情が底に流れている。感傷的すぎると受け取る人もいるだろうが、わたしはそうは思わない。ただ、本書のラストはちょっとやりすぎな気もした。わたしの感受性が追いついていないのかも知れないが、本書の中では稀に作り物っぽい感じがする。それ以外は感銘を受けた。現代においてはほとんど書き留められない、(繰り返すけれど)深い感情がここにある。こうした感性が、われわれには必要なのだ。
 著者は沖縄で性暴力についての聞き書きの仕事をしておられる方らしい。社会学者? 本書の文章はウェブの連載で知り、既に読んだものもいくらかあった。著者の仕事は、もう少し追いかけてみたい。

海をあげる (単行本)

海をあげる (単行本)

 
夜。
録画しておいた、BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 発災からの3日間」を見る。メンタルの弱い人は見ない方がよいかも知れない。東日本大震災の、地震(ある場所では6分間も続いたのだ)と津波の映像をまとめて見たのは初めて。言葉を失うという他ない。
 あの日自分がどうしていたのか、もうほとんど忘れている。岐阜でも小さな揺れはあったらしいが、わたしは気づかなかった。仕事場に生徒が来て、大地震があったことを知り、ネットで津波の映像を見ていた記憶がある。この「映像記録」では原発事故については詳しく描かれないが、あの日家に帰ってからずっとテレビを見ていて、原発のことばかり気になっていたのではなかったか。わたしはネットも見ていて、一部(「原子力資料情報室」だ)でメルトダウンの情報が流れていたのだが、家族はテレビを見ていてそれを信じなかった*1。あれはどの時点のことだったか、もう忘れている。

*1:ブログを見てみると、3月12日の時点で「原発の爆発にはやきもきしたが、メルトダウンしていないことが判って、本当にホッとした」と書いている。たぶんテレビの政府発表を信じて、メルトダウンという正しい情報をわたしは廃棄してしまったのだ。だから、メルトダウンという事実を確信したのは、もっと後のことだったわけだ。ひどいものである。