こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488 で、ピアノはクリフォード・カーゾン、指揮はイシュトヴァン・ケルテス、ロンドン交響楽団NML)。

Piano Concertos 20 23 24 26 27: Decca Legends

Piano Concertos 20 23 24 26 27: Decca Legends

ベートーヴェン交響曲第六番 op.68 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、オルケストル・レヴォリューショネル・エ・ロマンティック(NMLCD)。


論理は誰でも持ちうるひとつの暴力でもある。ゆえに、弱者の武器にもなるのだ。

絶対に正しいことが世界を覆っていくとき、批判的知性はどうすべきか。Aをいわねば殺すといわれて、Aをいわないことは可能か。もちろん、これには一般的な解はない。個々の場における実践があるだけである。対応をひとつでも誤ったら、それだけで死亡だ。

しかし、ほんとに自由と平等は相性が悪いな。

現実には個物はすべてちがうがゆえに完全な「平等」というのはあり得ない。しかし、種(集合といってもいい)における要素たちの「平等」ということは素直な考え方で、わたしもいまのところ特に誤っているとは思えない。そこの矛盾だな、問題は(例えば「個性は大事だけど、皆んな平等」っていう矛盾。これを刷り込まれている若い人たちに、この矛盾で悩んでいる人も少なくないだろう)。これももちろん、抽象的に考えすぎてはいけないのだが。というか、この一般化された論理は端的に矛盾しているがゆえに、解体されねばならない。

差別は言葉による区別に、優劣意識が加わったものとひとまず考えることができる。これもまた、言葉の解体の問題だ。存在しないカテゴリーを解体すること。実念論批判。いや、そちらを強調しすぎてはいけないだろう。むしろ優劣意識に光を当てるべきか。これは、むしろ感情の問題なのではないか。「むかつく」「傷つく」「腹が立つ」。そして、個性、アイデンティティ。なるほど、そこか。わたしは個性やアイデンティティは解体されるべきとはっきり考えている(何度もいうけれど、世界=わたしだ)。そこが完全に「古くさく、時代遅れ」なのだ。ははは。笑うぜ。これが最先端だ! もちろん、差別を廃棄していくのには何の問題もない。わたしだって差別されている側だしな。しかし、わたしの戦い方は単純なものじゃない。


楽しい楽しいお・や・じ・狩・り。あいつらクズだ! 殺しちまえ! みんなでやろうぜ!

ま、いずれにせよ、クズのおっさん(わたしも含む)やジジイどもはそのうちこの世界から退場するよ。次の世代はすべての人間は平等だと公的に刷り込まれることになるし、それはそれでよい。差別の構造もまた解体されねばならない。正義は世界を覆うだろう。


結局、次のようなところに帰っていくのかな。差別は確かによくない。しかし、解体されるべきひとつの差別が解体されても、次々と新しい差別が登場することは必至だし、誰であろうと己のすべての差別意識を廃棄することはできない。だから、あんまり偉そうなことは言いなさんな、と。

金柑を枝からちぎって食っていたら、手の甲にテントウムシが留まった。

好天。
昼からまた扶桑のイオンモールへ。途中、江南側の木曽川堤の桜がすばらしかった。車も少なく、ゆっくり運転しながら美しい世界を堪能した。
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー418円。このところ毎日のようにおやつを食べているので、さすがに低カロリーのものを笑。『武満徹著作集2』を読み始める。武満さんは言葉は少ないが、あらゆることを考え尽くしていて、心に残る言葉がいろいろある。特に、西洋音楽をやる日本人作曲家として、「日本と西洋」については繰り返し粘り強く考え抜かれている。本書(「音楽の余白から」)には、「西洋という巨大な鏡は砕け散った」という言葉が何回も出てくる。これはどういうことか。つまりこの鏡に我々はみずからを映し、明治以降自己認識してきた、その鏡が砕けたということだろうとわたしは思うが、ではさて。鏡はもはやないし、あったとしても、我々はもはや鏡に映すべき「日本」をもっていない。我々は己を失うほど深く西洋化しつつあり、「東洋」や「日本」は存在しないフィクションと、かなりの程度、化している。そして、それは問題があるどころか、我々はみずからのガラパゴスぶりを嘲笑するほどだ。いや、感知できない無意識の奥の奥のレヴェルでは、まだ西洋化し切ってはいないのであるが。
 別のこと。武満さんは村上華岳が特別お好きなようで、いろいろ啓蒙された。華岳は、まとめて一度見てみたいものである。華岳は、自分の絵について「飽くまで凡人の努力の現れである」(p.56)といっているそうだ。こんなことを言っている画家を、見ないわけにはいかないではないか。
 また別のこと。瀧口修造。わたしは瀧口についてほとんど何も知らないが、ずっと前から気になっていた。瀧口は仮には詩人、芸術家であったとしても、何者でもない者として生きたと予感している。ひとつの夢、ひとつの謎だったようにも、予感する。さて、いま瀧口修造に触れるとすれば、どうしたものかね。

武満徹著作集〈2〉

武満徹著作集〈2〉

  • 作者:武満 徹
  • 発売日: 2000/04/01
  • メディア: 単行本

下らんことを書こう。アニメを見るようになってアニソンも好きになったのだが、アニソンってのは映像の効果が強いのだよなあ。SAOはどのOP、EDもよくできているのだけれど、曲だけ独立してすばらしいってのは、やっぱり藍井エイルの「IGNITE」(第2期OP)くらいかな。アリシゼーションの LiSA「ADAMAS」は、映像との相乗効果でよく You Tube を見ています笑。キリトとユージオの剣の awesome synchronization! って英語コメントみたいに言いたいね。最後のところで、二人が拳で複雑に挨拶(?)するのも、カーッコいいんだなあ。


そうだな、アニメの「ソードアート・オンライン(SAO)」シリーズ、今までの分(SAO、SAO2、オーディナル・スケール、アリシゼーション、アリシゼーション War of Underworld)はすべて見たので、ついでにアニメ初心者がちょっとだけ語っておくか(ネタバレ注意)。

第1期は、ゲーム(フルダイブ型MMORPG)の中で死ぬとそれが現実の死になるという設定の世界で、正直言って最初は「安易だなあ」と思っていました。でも、エンタメとしてのストーリー展開のうまさに引き摺られて見ているうち、ハマりましたね。殺伐とした世界の中、主人公のキリト君とヒロインのアスナカップルが出来ていくのに惹き込まれた。で、SAO全体にいえるのが、キリトとアスナ画像)を中心に、魅力的なキャラクターがたくさん登場して、シリーズを通して活躍していくこと。このアニメはどれも世界設定はかなり苦しいのだけれど、魅力的なキャラクターたちをどう登場させ、活躍させるかというのが主眼になっているように思える。SAO2で登場するクールなシノン、アリシゼーションで登場する親友ユージオと騎士アリスなどは、特に魅力的ですね。

それから、ここまで見てくると避けられないのが「正妻戦争」だが、これはさすがに書くのが恥ずかしい笑。しかしキリト君には最初からアスナがいるんだから、「正妻戦争」とかおかしいだろ、ははは。第1期ではゲームの中でとはいえ結婚していたし、アリシゼーションでは現実世界の方でキリト君がほとんどプロポーズしてるやん。アニメの常としてキリト君はモテモテなわけだが、これは誰が悪いんだ、原作者か。まあシノンアスナとも仲がよくて二人を認めているのだが、アリスとかどうすんだよ。原作最新巻でもアスナとアリスは冷戦状態らしいんだが。

SAOで困る(?)のは、とにかくここまで長いこと。TV版全部で、120話以上ある(+劇場版オーディナル・スケール)。まあ、楽しみがたくさんあるということでもあるが。わたしがいちばん好きなのはSAO2かな。SAOは全体的にアニメとしては重いが、SAO2はわりと気楽に見られるし、いろんなキャラクターがそれぞれ存分に活躍するので。アリシゼーション、アリシゼーションWoUは、重いんだよなあ。それから、絵はどれもすごくきれいで、わたしがよく書いているとおり、後期おっさんにはちょっと刺激が強すぎるところもある。とにかく、今年公開予定の劇場版(プログレッシブ)も楽しみ(たぶんTSUTAYAに出るまで待つけれど笑)。

おしまい。お粗末様でしたー。