「中毒化」させる技術 / 斎藤幸平『人新世の「資本論」』

晴。

いまの(脳科学のレヴェルで)「中毒化 addict」させる技術の発展は、わたしのような時代遅れの人間にはとても恐ろしい。「中毒化」させる技術への対抗は、次世代の必須のスキルになるだろう。たぶん、いまの若い人たちは既にある程度そのようなスキルと慣習をもっているようにも思われるけれど、誰もが誰もというわけにはいかない筈だし、そのようなスキルそのものを完璧にすることは誰にとっても非常にむずかしい。一般に、自力で「洗脳」を解くことは不可能であるといわれる。
 インターネットそのものが、「中毒化」させる技術の実践フィールドになっている。我々は、ますますインターネットそのものに addict させられる。

何か「快楽中枢」みたいなのがあるとして、それを直接操作されているような感じがするのだが。
カタルシス。物語。映像。音楽。
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斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読み始める。わたしは基本的にベストセラーは何年か遅れて読む習性なのだが(そうすると、大抵は読む必要がなくなるのであるが笑)、さすがに捨て置けなくなって購入した。若いのに骨太な思想家だな。第三章まで読んだ。とりあえず、地球環境問題と絡めて、資本主義ではダメだというのはわかった。説得力はある。ただ、これだけならよくあるお話なので、では実際にどうすればよいのかという、残りの部分がとても楽しみである。

人新世の「資本論」 (集英社新書)

人新世の「資本論」 (集英社新書)

 
第六章を読書中。「コモン」の発想はよい。しかし、資本主義と現代国家はきわめて強い結びつきがある。それゆえ、資本主義を廃棄しようとするなら国家を解体せねばならぬ筈だが、著者はそれをどう解決するのか…。

斎藤幸平『人新世の「資本論」』読了。本書は国家をまさに肯定して終わる。

本書では、<コモン>、つまり、私的所有や国有とは異なる生産手段の水平的な共同管理こそが、コミュニズムの基盤になると唱えてきた。だが、それは、国家の力を拒絶することを意味しない。むしろ、インフラ整備や産業転換の必要性を考えれば、国家という解決手段を拒否することは愚かでさえある。国家を拒否するアナーキズムは、気候危機に対処できない。だが、国家に頼りすぎることは、気候毛沢東主義に陥る危険性を孕んでいる。だからこそ、コミュニズムが唯一の選択肢なのである。(p.355)

いかにもうまくまとめたようだが、「国家は必要、でも頼りすぎてはいけない」というのは、端的にいって矛盾ではないか。矛盾がいけないというわけではないが、これを実行できるのか。わたしは、極めてむずかしいと思う。その境目が微妙すぎるからだ。

そもそも本書には国家についての考察がほとんどない。仮に、国家としてのコミュニズムが可能であるとしよう。では、そこへどうやってもっていったらよいのであるか。アソシエーション(協同組合)を増やしていけば、漸進的に国家としてのコミュニズムに世界が自然と到達するとでもいうのか。ちなみに、本書に暴力革命の文字はない。

本書の読後感。資本主義はダメ→コミュニズムは無理→死亡。チーン、南無阿弥陀仏。いや、それはあまりにも敗北主義的だって? それは認める。でも、絶望的なのは前からだから、わたしだってまだ諦めたわけではないし、幸い、著者はわたしなどとは比較にならずすばらしく物知りで、頭がよいのだ。

わたしはというと、結局制度よりもまず人を変えるしかないと思う。そして、人を変えることはまず不可能だ。そこをどうするか、だ、問題は。希望は「地球環境問題ネイティブ」の若い人たちだ。我々は、彼ら彼女らを抑圧して潰すのではなく、彼ら彼女らに道を譲り、助けていくべきである。そしてその場を作り、あとはさっさと退場していくということ。

上間陽子『海をあげる』を読み始める。単行本のエッセイ集を買ったのは、どのくらいぶりだろうか。ちょっと記憶にない。