原武史『昭和天皇』

晴。

ウチの木蓮。朝撮影。
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午前中、散歩。


老父の作った寄植え二つ。



堤防のムスカリ。これ、強い草だな。

主要幹線道路沿いの植込みにて。


桜もだいぶ咲いてきた。某神社にて。

オオアラセイトウ




ハナカイドウ。

ハナニラ。これも強い草。

最後のはウチの庭。
田んぼの上にはホバリングしているヒバリの囀りが。

昼から扶桑のイオンモールへ。いい天気で、頭をからっぽにして運転するのが心地よい。江南側の木曽川堤の桜もちらほら。
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。わらびもち桜&宇治抹茶ホイップ+ブレンドコーヒー495円。図書館から借りてきた、原武史昭和天皇』読了。昭和天皇の皇室祭祀について特に考察してある。昭和天皇天皇祭祀に心底熱心であったこと、また貞明皇太后の役割の大きさについて詳述してあるのが目を引いた。原氏は、明治以降の皇室祭祀について、それは「作られた伝統」であることを強調しているが、それはその通りであろう。昭和天皇は戦争中でも皇祖神に対して(戦勝を)真剣に祈っているが、わたしにはその「皇祖神」というのが、意味内容をほとんどもたない空疎な記号のように見えて仕方がない。例えば昭和天皇はアマテラスに対して(も)祈っていたらしいが、そのアマテラスというのは、「太陽神」とされるけれども、神話が書き留められた記紀の時代にあってすら、それはアニミスティックな素朴な段階のもやもやしたカミではないどころか、既に意識的イデオロギー的に作られた(捏造された)観念であるように見える。
 そして、昭和天皇における「三種の神器」の重要性。本書を読むと、昭和天皇が敗戦を受け入れようとしたのは、「三種の神器」が国体をなすという発想のもと、その意味で天皇制を保持しようという意識においてなされたものであるとされる。つまり、国民のこととか、また自分の退位とかを考慮したのではなく、真意は「三種の神器」を通した国体の保持であったのである、と。
 そのようないわば「前近代的」な発想と、昭和天皇が優秀であったゆえの近代意識が矛盾したのは、わたしにはいうまでもないことのように思える。しかし、そのあたりは、原氏はあまり矛盾を認めていないようだ。例えば昭和天皇が科学研究に没頭したのはよく知られているが、原氏はそこに生物学を通じて神の道を昭和天皇は見出したのであろうという解釈だ。原氏はもちろん天皇研究者でありわたしは無知な一般人であるが、そこはわたしは原氏の認識に違和感をもつ。わたしには、昭和天皇における生物学は一種の「逃避」、心のバランスを取るための行為であったように見えて仕方がない。昭和天皇における前近代的意識と近代意識の矛盾は、生物学に「逃避」することで両立されていたのではないか。

昭和天皇 (岩波新書)

昭和天皇 (岩波新書)

  • 作者:原 武史
  • 発売日: 2008/01/22
  • メディア: 新書
本書を読んでも、昭和天皇が優秀であったこと、また昭和天皇には明らかに戦争責任があるというわたしのこれまでの印象は変わらなかった。昭和天皇は敗戦後も、はっきりと政治に口を出しており、「象徴天皇制」などは屁とも思っていなかったことは確実だろう。たぶん、「三種の神器」こそが国体であるという意識は死ぬまであったのではないかという気がするが、それは本書ではっきりとは証明されていなかったように思う。ま、そのあたりはちょっとうろ覚えだ。そのような昭和天皇の意識が現上皇、また現天皇にどう受け止められていったのかというのは、これからの重要な研究課題となるにちがいない。少なくとも現上皇は、ある意味リベラルですらありながら、宮中祭祀に非常に熱心、あるいはマジメであったことが知られている。一方で昭和天皇とはちがい、「象徴天皇制」における天皇ということも、よく意識していたというのがわたしの一般人的実感である。

扶桑からの帰り、カルコスに寄る。文庫本数冊、新書本一冊など。

夜。
井筒俊彦英文著作翻訳コレクションの『東洋哲学の構造』を図書館から借りてきていたのであるが、今日ふと表紙を見てみたら、これが何とエラノス会議における井筒先生の講演集なのだった! 英文で読むしかないと思っていたのだが。全12講演から成る。びっくりしてまずは第一講演、「老荘思想における絶対的なものと完全な人間」を読む。驚くほど(驚いてばっかりだが笑)明晰な文章で、たぶん元の英文自体もそんなにむずかしくないのではないか。翻訳でもクリアで、文意はほとんど誤解の余地がないくらいである。西洋人でも、また現代の日本人でも、ある程度以上の読解力がある人には容易に理解できる文章であろう。
 しかし、である。この文章の「本当の意味」が理解できる人が、西洋にも(いまの)日本にもほとんどいないこともまた、真実であろう。じゃあ、お前わかったの?と来られると、いやいやいやという他ない。わたしは、自分がまだまだ未熟であることを思い知らされますよ。わたしは、自分の解体力が浅はかであることを認識している。
 エラノス会議には日本人としてはまず鈴木大拙が招かれ、次いで井筒先生が招かれ、そして河合隼雄先生が招かれた(他にも呼ばれた日本人は居る)。まったく、的確な招聘であったといってよい。そのあたりは、西洋人の方がよくわかっていたのだな。エラノス会議は既に終了しているが、いまでも存在しているとすれば中沢さんあたりがふさわしかったかも知れないけれども。
 鈴木大拙や河合先生の講演は日本語で読めるのかな。

本書は高価だが、頑張って買ってもよいのかも知れない。すぐに絶版になりそうだなあ。読み直すかっていうと、読み直しそうだしなあ。