『武満徹著作集1』 / アニメの幼稚とリアル

曇。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー393円。『武満徹著作集1』読了。武満さんの文章を読むと、日頃の狂気じみたわたしからズレて、まともになる。武満さんは「音楽家の耳は特に汚れている、新鮮な耳を取り戻したい」ということを仰るが、ほんと耳に限らず、感性一般においてそうだ。わたしたちの狭い感性も、とんでもなく汚れていて、狂気じみている。いや、それがいけないのかはわからないが、武満さんの文章、音楽のようにコスミックなものと接すると、まともになるのは確かだ。
 武満さんは音楽家だが、文章は決して余技でないように思う。武満さん自身、作曲には何かの言葉が必要だという。何かの言葉を求めていると。既存の分節化された記号ではなく、何かズレのある言葉。それは、正確に詩人の態度に一致している。驚くべきことに、現在、このような意味での詩人は、詩人といわれている人たちの間にほとんどいないように思われるのだが、わたしが知らないだけなのかも知れない。
 武満さんの文章と、音楽。わたしにはどちらかというと、文章の方がよくわかる感じがする。それはわたしが、こんな場所で価値のないものにせよ文章のようなものを書いているからかも知れない。武満さんの音楽は、クラヲタなどの間では、既にそんなにむずかしいものではないと見做されているようだ。どーせいつもの「タケミツ・トーン」だろ?とか。わたしは以前はこのような評を読むとむかついたものだが、いまでは、わたしの聴いているものもそれからどこまで隔たっているのか、わからないという気もする。武満さんの音楽を、「個性をもった作曲家の作品」と見做すことが、間違いかもしれないのだ。とにかく、武満さんの音楽は依然としてわたしには謎で、驚嘆させられるものだ。宇宙の音楽。まったく、異様という点で、こんな異様な音楽家は他にベートーヴェンくらいしか知らない。

武満徹著作集〈1〉

武満徹著作集〈1〉

 
それにしても…、詩人になるとはむずかしいものだ。詩人はある意味で「すべての本」を読まねばならない。わたしはすべての本を読んだ、肉はかなしいとマラルメは書きつけた。いま、「すべての本」を読んだ詩人が、いったいどれくらいいることだろうか? ま、マイナーポエットという道もあるのだが、しかしマイナーポエットすらも、なかなかいないだろう。

ひどい鼻血ブーブー出てまいった。こんなひどい鼻血は記憶にないくらい。ティッシュを替えまくり、アイスノンみたいなのでずっと押さえつけて、ようやく止まりました笑。シーツも汚れたし。

ゼロの使い魔』を最後の第四期まで見ることになるとは。じつに下らないアニメで、どこかの口の悪いのが萌え豚のための作品と書いていてひどいなと思ったのだが、いや、言い得て妙だという気になりました笑。確かに俺萌え豚になってるなあ、いつまでもルイズのツンデレを見ていたい感じ。
 アニメは想像力の世界の奥の方にあって、リアルからひどく遠い。ゆえに幼稚である。しかし、我々の生活そのものがリアルから遠くなっているので、逆説的にむしろリアルになっている。わたしにとってはアニメは奥の空っぽの領域の開拓だが、アニメにリアルに慰められている人は、世界中にたくさんいるでしょう。わたしはアニメのMADを You Tube で見て、英語のコメントを読むのが結構好きである。みんな同じなんだなって。幼稚で下らないのに、何か同時代的な意味があるのだ。いま、哲学や文学といわれるものがどんどん意味を失いつつあるのと、それは関係している筈である。敢ていえば、それが高度資本主義の現在的状況と関係しているのはまちがいないとも思うが、正確なところはわたしの能力を超えている。
 という萌え豚のわたし。こういう奴がよく武満徹とかいうぜ。カスだな。


岩波文庫で『カタロニア讃歌』を読んでいるのだが、なかなか進まない。そんなに速く読める本ではないわけだが、翻訳もあまりよくない。バブル末期くらいの翻訳なのだが、正確さは知らないけれど、ガムシロップのような甘さがある日本語で、オーウェルに似つかわしくない。そもそも戦場の話ですよ? 読み始めるときが苦痛で、しばらくして慣れてくるまで、我慢しなければならない。ひらがなが多くて、一人称が「ぼく」なのも疲れる。やはり、翻訳の良し悪しというのはあるのだ。

夜。
ゼロの使い魔F』第6話まで見る。