自然な縮減社会 / 福嶋亮大『らせん状想像力』

祝日(建国記念の日)。晴。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのセレナード ニ長調「四つのオーケストラのためのノットゥルノ」 K.286、セレナード第六番 ニ長調「セレナータ・ノットゥルナ」 K.239 で、指揮はクリストファー・ホグウッドエンシェント室内管弦楽団NML)。

Mozart: Eine Kleine Nachtmusik

Mozart: Eine Kleine Nachtmusik

  • 発売日: 1984/09/17
  • メディア: CD
■バッハのチェンバロ協奏曲 ニ短調 BWV1052 で、チェンバロと指揮はカール・リヒターミュンヘン・バッハ管弦楽団NML)。よい。


資本主義が限界にきているのは我々愚かな民衆には明白なことだが、そういうことをいうとえらい先生方に怒られるのだよなあ。そもそもオルタナティブがない、例えばインターネットとAIを組み合わせた共産主義というところだろうが、それは机上の空論である。しかしとにかく、「持続可能な成長」というのは、素人の妄想だとヌルすぎてたぶんムリだ。そもそも世界人口が多すぎる。これだと、不自然できわめて人工的な管理社会しか道がない。まあ、「インターネットとAIを組み合わせた共産主義」というのはもっとひどい人工管理社会なわけだが、いずれにせよ「自然な縮減社会」へのできるだけソフトなランディングのためには何らかの管理社会化は不可避だろう。何にせよ、遠くない未来に社会の大激変が起きても驚かない。そのために、皆が最低でも生き延びていけるようにBIが導入されると助かると思う。ただ、BIを可能にするほど国家が保持されるかはわからないところだが。

「オカタケな日々」第46回更新。

風呂場の屋根に溜まった檜の葉を掃き落とす。
老父が木蓮徒長枝を切るのを手伝う。
樋に詰まった檜の葉を掃除する。


図書館から借りてきた、福嶋亮大『らせん状想像力』読了。副題「平成デモクラシー文学論」。一気に二時間でさらりと読んだ。時代遅れの自分にはほとんど無意味な文章の連続なので、さらりと読めたのである。わたしにはここでの記号が解体され意味を失っていて、何ということもなかった。なかなかおもしろく、批評書というものを読まなくなったわたしだが、読んでよかったと思う。本書は「平成文学」の「総括的批評書」であるが、著者自身が「平成」という区切りを信用していない。本書にはわたしが(文庫本などで)所有しながら読んでいない小説の固有名が大量に鏤められていて、死蔵しているそれらをいまさらながら読んでみようか知らと思っただけでも、成功した読書であったといえよう(実際に読むかどうかはわからないが笑)。
 文学、ここでは小説と限定してもよいが、というものは記号で書かれているが、それらの記号(シニフィアンと古くさい言い方をしてもいいだろう)が意味(同じくシニフィエといってもいいだろう)を失って漂流している、そんな「無意味さ」を扱おうとしているがゆえに、その意味で本書は無意味である。著者はそのようにほとんど無意味な(わたしには)文章を書きながら、たぶん自分でも自分が何を書いているかわからなくなっているところがあるのではないのかなと思った。それは現代の散文における常態であるが、本書はそのことを強く喚起するがゆえに(わたしには)貴重である。
 本書は構えとして「文学」、つまり「純文学」を扱っているが、現代はエンタメ、あるいは物語の時代である。マンガでも、アニメでも、映画でも、ドラマでも、ゲームでも、ポピュラー・ソングでも、それにもちろん小説でも、大量の物語が流通し、消費されている。それらが脳内で断片化し、ほとんど「病的な」状態を醸し出して(?)いるのが現代であり、そのことすら既に云われ尽くしているが、やはりそれは繰り返し立ち返るべき基本的な認識であろう。本書がエンタメを扱っていない(扱っていても「純文学」として扱っている)のは、おおよそ照射力を弱めているのではないかと感じた。まあしかし、以上は時代遅れのおっさんの独り言にすぎないわけだが。

らせん状想像力: 平成デモクラシー文学論

らせん状想像力: 平成デモクラシー文学論

なお、本書の題名の「らせん状」は無意味であるし、副題の「デモクラシー」も無意味である。でなければ、著者のひとりよがりというものではないか。


今回の森喜朗会長の辞任劇の大騒ぎは、時代遅れのわたしには日本にもついにPC(ポリティカル・コレクトネスあるいはポリティカリー・コレクト)猖獗の時代がきたという、じつに腹立たしい象徴である。どいつもこいつも、自分が叩かれないためにほとんど真剣に考えたこともない「政治的に正しい」言説を吐きやがって、って感じだ。IOCなど、騒ぎが大きくなると見るや掌を返す発言とか、まったくひどいものである。わたしは森喜朗なんてのは全然好きなタイプの人間でなし、老害といや老害であるが、誰も彼も(若い人たちだっていつかは)老害になるのである。ま、わたしだって最低のおっさんであるし、まもなく老害化するであろう。ただ、森会長とちがうのは田舎者の無名人というだけにすぎない。
 前にも書いたけれど、わたしは30年前、学生のときに柄谷行人や浅田さんのやっていた雑誌でアメリカでのPCの話を知ったが、柄谷も浅田さんも「下らない」という反応だったし、わたしもこんなものが日本で猛威をふるう世の中になるとはまったく思っていなかった。じつに甘っちょろいぼっちゃんだったよ、わたしは。

はっきりいう。これが理性、正義なのだ。有無をいわせず、心にもないことをいう(あるいはいわされる)。感情よりも理性(理屈)が先行する。何を当り前のことを、それでよいではないかと、あなたはいわれるか。

しかし…、考えてみればアイデンティティ・ポリティクスってのも奇怪な概念だな。あまりにも広い意味内容をカバーしていて、確かに役立つ場合もあるだろうが、ここでも言葉がひとり歩きしている。わたしはアイデンティティ・ポリティクスにあまり興味がないが、そういうと、白黒はっきりさせないと気の済まない「正義」は、わたしを女性差別主義者、人種差別主義者、その他もろもろと見做すことであろう。曖昧な態度を許してくれないのだ。過度の一般化・抽象化、そしてそれがコンテクストを離れて漂流する。皆んな、アイデンティティ・ポリティクス擁護といっておけば安全だから、よくも考えたこともない概念を振り回す。こういうのを、思考停止というのではないか。ってことも、まあ云われ尽くしているんだけどね。理性の暴力を止める術(すべ)はないのである。

犬夜叉』第23巻まで読む。

犬夜叉 (19) (少年サンデーコミックス)

犬夜叉 (19) (少年サンデーコミックス)