青柳いづみこ『音楽で生きていく!』

曇。

第92回:ゼロコロナへの政策転換を(森永卓郎) | マガジン9
これこそが論理的、合理的な意見というものではあるまいか。もちろん、そのような意見が必ず正しいとは限らないし、そもそも政治は結果が正しければそれでよいところがあるけれど、しかしそれにしてもどうしてこのような意見がほとんど流通しないのか。
 わたしがこのコロナ禍であらためて思い知らされたことのひとつに、専門家といっても自分の専門のことしか専門でないという、当り前の話がある。そして、その自分の専門においてすら、論理的、合理的な意見を表明できない(いったい何を忖度しているのか)とは、なさけないというか、それともそんなことは当り前なのだろうか。
 以上のこととは直接関係がないけれど、わたしは森永さんはまともな人だと思っている。でも、どうしてそう思うのだろう。わたしはこの人の「敗北宣言」が悲しかった。この人は、論客として破れてはならない相手に破れた。そのためなのか、いまは所沢(だったっけ)に引っ込み、半農の暮らしをしながらこのような場所で時々発信しておられる、のかも知れない。よくは知らない。


図書館から借りてきた、青柳いづみこ『音楽で生きていく!』読了。若い(クラシック)音楽家たちとの対談集。「キャリアデザイン」についての本で、つまりは音楽家としてどうやって「食える」ようになるかということについての本である。知っている人は知っているだろうが、クラシック音楽で「食っていく」というのは極めてむずかしいことで、例えば日本でピアニストとして音大・芸大を出ても、ピアノを商売にできる人はほとんどいないという事実がある。だから、好きな音楽で食っていきたいなら、戦略を練らねばならない。本書は(たぶん)いまを時めく若い音楽家たちから成功の秘訣を炙り出そうとしたもので、だから一般の音楽好きの読むような本ではないのかも知れない。しかし、誰でも何かで食っていかなければならないことを考えれば、キャリアデザインとは、万人が関心をもってしかるべき概念であるともいえる。成功者である青柳いづみこさんですら、本書を作ってみて、キャリアデザインということをあまりしてこなかった自分に落ち込んだりもしたという。
 さても、キャリアデザインという言葉を使うかどうかは別として、これは非常に今風の考え方だなとも思った。実際、若い人の書くブログ等の何割かは、キャリアデザイン的な発想を強く含んでいるような印象(あくまでも印象)がある。自分の人生を「成功」に導くため、それを事前に設計していくということ。わたしはというと、そういうことを一度もしたことがない。没落して当然のクズというべきであろうか。

 

先日急死したことが報じられた、デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を読み始める。ブルシット・ジョブ。クソどうでもいい仕事とは、とにかくネーミングがいい、というかインパクトがある。わたしは序章を読んで、悲しくて胸がいっぱいになった。存在するのが無意味な仕事。それで結構な賃金をもらっていながら、何のやりがいもない仕事。しかし、なかなか本書は一筋縄ではいかない。本書第二章は具体的なブルシット・ジョブの事例を集め、分類しているのであるが、著者はそれらを読んで心を動かされ、また痛ましい気持ちになるばかりか、「大いに腹を抱えた」というところでおやと思わされた。わたしも具体的な事例の記述を読んで、その気持ちがわかった。実際に存在するブルシット・ジョブがあまりにも奇想天外すぎて、報告者は怒っているのだが、こちらは思わず笑ってしまうのが抑えられないのである。著者が別の文脈で言っていることだが、社会そのものが、いや人間こそがそもそもブルシット(クソ)という他ないのかも知れない。無意味な過度の一般化というものであろうが。続けて読む。