物象化した言葉 / 三浦淳史『20世紀の名演奏家』

晴。

物象化した言葉が蔓延りすぎている。制度化した言葉を解体する人間がほとんどいない。言葉の外側が見えない。無。リアルとは無だ。
前も書いたけれど、特定された生きる根拠はない。言葉による関係性を解体し、ゆるやかに関係づけられたところの関係性のネットワーク全体を根拠として生きるべきである。いまはそんなことがひどくむずかしくなってしまった。完全に転倒している。我々は制度と一体化しつつある。究極の全体主義

生を雁字搦めにするところの論理を毎日生産するばかりなので、解体してもしても切りがない。ゆえに、我々のようなバカがひどく苦しむことになる。


午前中、80分ほど散歩。青白いインテリなのでさすがに疲れた。






オオイヌノフグリ

メジロ




弁天様。

伊吹山





ヒバリが鳴いていた。もう春が近い。


昼から図書館。和菓子餅信。
おやつに「よくばり大福」を食う。うまい。

三浦淳史『20世紀の名演奏家』を読み始める。著者はわたしには懐かしい人。30年前わたしがまだ『レコード芸術』誌を買っていた頃、エッセイが連載されているのを読んでいた記憶がある。確か、イギリス音楽が中心のそれだった筈だが、ひどくうろ覚えだ。ただ、いまでも何故か記憶しているのは、英語の water に body of water の意味がある、という記述がエッセイ中にあったことだ。辞書を引くと「積水」という訳語があったりするそれで、複数形を取ることが多い*1。例えば waters で「川」や「海」の意味があったりする。まあそれはどうでもよいのだが、連載はいつも西洋の香りがあって、愛読していたのである。著者はいまではどれほど知られているか、おそらくはほとんど忘却されているだろうけれども、Wikipedia には思いの外多くの記述がある。本書はまだ三分の一ほどしか読んでいないが、名前だけしか知らない、大昔の大指揮者たちのエピソードが連ねてあって、よい文章でなかなか読ませる。このような古くさいよい文章は、いまや一部の好事家の愛玩するところたるのみであろうか。

図書館から借りてきた、三浦淳史『20世紀の名演奏家』読了。

*1:あるいは、この意味では複数形しかないかも知れない。わたしは語学ができないので、詳しくは知らない。