諸行無常について / 多田富雄『春楡の木陰で』

曇。

この数箇月しんどいので、こんな対応をしていて意味あるのかとも思うが、そんなことに関わらず壊れているので、まあ何とかしないといけないよね。個人的な苦痛から普遍性に繋がればよいのだけれども。
未熟者は一生修行でござるな。

散髪。さっぱりした。短くすると白髪もまだあまり目立たないな。
いつも髪を切ってもらいながら半分寝ているので、テレビで地元のワイドショーがやっているのをぼーっと聞いているだけなのだが、それでも呆れてしまう。高井アナが東海地方の街道をゆっくりと歩いているコーナーだけ、聞いていてほっとする。もう何年続いているのかな。いまは知多半島で「お遍路」をやっている。以前郡上・飛騨街道を歩いていたのもおもしろかった。

何かカラスがかあかあうるさい。何だろう。

昼食の自家製切り干し大根がうまかった。いつもの大根の味噌汁が好きだし、わたしは田舎の人だ。

「オカタケな日々」第44回更新。

いまの世の中は諸行無常という当り前の真理と非親和的なので、我々の生き方が不自然になっているところがある。これを自然な構造に戻すのは、大変な苦痛が必要だということを実感する。分節化する以前の「無」を認めるということ。しかし、たぶんそんなことは決して一般化しまいし、自然な生き方に近づいて苦しむ人たちの助けになるということすらむずかしい。何度も書いているけれど、世界の徹底した人工化、「不自然」化。例えば西洋人にとって当り前の理性的、合理的に生きるというのは、それが根底に置かれると「不自然に」なる(つまり、生きる根拠として唯一の超越的絶対神を必要としたりする)ことを認識しないといけない。「自然に生きる」ということこそがむしろ合理的な考え方なのである。その意味で、通俗化したよき仏教は合理的というべきである。

諸行無常は「一切がむなしい」ということと(もちろん)関係がある。しかし、諸行無常といって認められる人も、「一切がむなしい」ということはなかなか認められないかも知れない。まあ、そんなものなのだろうな。「一切がむなしい」ということが無気力と繋がってしまうのが、我々の修行の足りないところである。そう思うと、通俗化した仏教はいろいろ考えてきたものだ。いや、かつての日本人は深く考えていた、感じていたといっていい。

第一原因を考えないということ。関係性のネットワーク全体を根拠として生きるということ。それはかつて(少なくとも日本において)可能であったのだから、現代において不可能と言い切ることはできない。我々の努力はもっぱらここに傾注されるべきである。

昼から晴れる。
肉屋。スーパー。
マンガでも借りようかと途中で TSUTAYA に寄ったが、棚を見ていて「まあいいや」となる。四半世紀前の「SLAM DUNK」とか「ジョジョ」の読んでいない分を借りようかと思ったが、もうあまりにも前すぎて、どこまで読んだのか忘れてしまった。アニメもまたそのうちという感じ。


多田富雄『春楡の木陰で』読了。「ブ」で108円で買った本。

私が自死を選ばなかった理由は、なんと言っても付きっ切りで看病し、私の病状に一喜一憂してくれた、妻のためだったと確信している。私の命は、私だけのものではない。それを苦しいからといって、私の意志だけで断つことはできないと悟ったからである。(p.190)

春楡の木陰で (集英社文庫)

春楡の木陰で (集英社文庫)

 

日没前、散歩。




そのうち失われることがわかっている風景なので、精々歩いておこう。


やっほーこんにちは。

 
夜。
劇場版「ソードアート・オンライン オーディナル・スケール」を見る。