中沢新一&内田樹『日本の文脈』

曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。入試問題。
昼飯はおばあちゃんのご飯。
午後もお勉強。脳トレしすぎて痴呆になりそう。

プリペイドカードにチャージするためスーパーへ。

夜。
中沢新一内田樹『日本の文脈』(再)読了。対談集。わたしのこれまで生きてきて、師というものと出会わなかった。というか、師を求めなかったところがあるのだろう。師から伝統というものが直接わたしに流れ込むことがなかった。言っても詮ないことだが、自分に感じている(精神の)貧しさは、そこにもあるのだと思う。まあ、だからどうということもないのであるが。

日本の文脈

日本の文脈

自分は普段は結構ほがらかな人なのだと思うが、この場所ではあんまりそうではなさそうですね(笑)。時代が時代だから、仕方のないところもあるけれど。内田樹なんて、最近怒ってかむかついてか悲観してかばかりじゃん。国全体が、貧すれば鈍するということなのだろうか。いまの時代、いつもほがらかでいられる人は、途轍もない達人でなければ、ただの勘違いの人ではないかとも思われる。それでもほがらかでいられれば、いるべきであろう。武満さんは、絶望的な認識を抱きながら、希望をもつべきと言った。

本書の対談はほぼ震災前で、雰囲気がいまと全然ちがう。やはり震災と「失われた20年」、それにいまのコロナ禍で、ひどく暗鬱な時代になったことを痛感する。これからの時代はITが中心になっていくのだろうが、日本の「IT敗戦」もひどいものだ。そして、文科省はこの国の学問を破壊し、それは既に数値化できるところまで進んでいてなのに方針は転換されない。さて、希望は若い人たちにあるのだろうが、ま、わたしは若い人たちのことはよく知らないし、そもそも自分のことで手一杯だ。いや、わたしごときがこんな主語の大きなことをいったって仕方ないのだが。

科学的、理知的な言葉ばかり飛び交っている。感情が貧しい。深みをもった言葉がない。いや、そんなものは別にたくさんなくてもよいのだが、それにしたって、どこかで聞いたような言葉ばかりではないか。何もない。ある引きこもり死の人は、かつてのノートに「働いて働いて、心の中はからっぽ」と書き付けていたっけ。

わたしはこのところ、次第にネット上への共感能力を失ってきていることを感じる。いったい自分は何に苛立つのか。また、読めない本がほんとに増えた。わたしのたんなる老化ゆえであれば別に大した話ではない。我々の心が貧しいのは別に驚くべきことではないのかも知れないが、その氾濫がネットや書籍で可視化されるのはつらい。そして、そのネットこそが我々のリアルになってきているのだ。

まあしかし、粘り強くやっていくしか仕方がないな。凡人に自分を耕し鍛えていくこと以外、何ができようか。死ぬまで修行である。