武満徹と世界の「大きさ」

晴。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー393円。ミスドのパイを食って、ミスドのコーヒーで深く満足する安上がりなわたくし。『武満徹著作集1』の「樹の鏡、草原の鏡」を読み始める。冒頭の「Mirror」の三つの文章と、「暗い河の流れに」。ますます武満さんの文章にハマっている。武満さんの音楽は、なんといってもいわゆる「現代音楽」であるから、ある程度の耳の訓練、あるいは慣れていない人にはたぶんかなり「難解」だ。もっとも「現代音楽」のジャンルの中では比較的聴きやすく、ゆえに革新的でないと見做している人たちも少なくないが、そういう人たちは変人か一種の「おたく」(ここでは悪い意味で)なので、放っておこう。いきなり聴いて全然わからない、苦痛ですらあっても、おかしくはないのかも知れない。しかし、である。大部分の音楽とちがって、武満さんの音楽は、まったく音楽を聴いたことのない人(そんなひとはいないので、仮想的に存在したとして)、あらゆる人、いやつつましく少し限定して、あらゆる日本人に、深く関係している、そういう音楽である。たぶん、日本の「自然」に触れたことのある人には、すべて。武満さんは西洋音楽から出発して、日本の「自然」そのものに向かう、そういうとあまりにもわかりやすすぎてよくないかも知れないが。私たちが殺しつつある、あの日本の「自然」である。たぶん、殺している「主体」は、我々の西洋的理性かも知れない。その意味で、我々は武満さんの音楽の目指しているところから、ひどく遠くへ行こうとしている。それだから、武満さんはいまにおいてこそ「難解」なのだ。
 わたしは思う。かつての世界といまの世界、世界の「大きさ」として、かつての方が小さかったと思うのは現代人の完全な錯覚であると。せめて、いまも昔も、世界の「大きさ」は同じだったと仮定しよう。かつてと現在においてちがうのは、いまの方が世界が遥かに細かく分節化されていることだ。そして、いったん物象化された概念が世界を人工的に再構成し、その人工化された世界が再分節化されて象徴的に再構造化される。その繰り返しである。もちろん、駆動力は資本主義であり、この地球上でそれを逃れている場所はもはやどこにもない。我々は、「野生」を失いつつある。あとは、人工的に構築された「野生」というものが可能か、というところなのかも知れない。ついでにいっておけば、日本のアニメは、それに関しておもしろいことをやっている。我々の想像力は「野生」を生み出し得るかという、世界最新の実験なのだ。
 しかし、わたしはたぶん、ついにはそちらの方向へ行かないような気がする。時代遅れの人だから。武満さんの方向へわたしは進みたいと思うし、音楽の世界で武満さんはわたしの知る限り、そうしてもっとも遠くまで進んだ。武満さんは時代遅れとはいえない。無能なわたしも、そちらの方向で、無力な試みをしてみたいと思うのだが、既に人生の黄昏において、果たしてそれは可能なんだろうか?
 わたしは、武満さんに似た人として、よくベートーヴェンを思う。もちろん、わたしだけが「似ている」と思うのみだ。武満さんが「自然」に繋がっているのと似たような感じを、ベートーヴェンはわたしにもたらす。ベートーヴェンも、深く自然を愛した人だった。彼の心そのものが「野生」だった。西洋音楽ベートーヴェンの生み出した構造を分解して再構築し、完全にプロセス化してみせたが、それはベートーヴェンには意外なことだったのではないかと、わたしは夢想する。

日没前、散歩。住宅地を歩いてきた。


ムクドリかな。おしり。




さすがに寒かった。

しかし、上の文章を読み返してみると、武満さん=日本の「自然」というのは、ひどいミスリードですね。武満さんが読んだら、叱られるような単純化だ。それに、「自然」といったら、美しい日本の海山空みたいなものが想像されてしまうだろうし。わたしはエコロジーとか言いたいわけじゃないのだけれど。まあしかし、いっか。武満さんがまさに「東洋」なのは、やはり否定できないところだしな。その「東洋」は、西洋人の心の中にもある、ひとつの思考法です。