仕事に関する矛盾した一命題、三考 / 岐阜県美術館で「岸田劉生展」

晴。
未踏の領域に沈み込んでいくうち眠ってしまう。全領域が断片化したという夢。数学的な組み合わせ。東南アジア。結局、9時間かそれ以上寝た。目覚めたのち寝る前の思考の続き。

一般的には、知られた方がよいし、人の役に立った方がよい。それに反するがゆえに、カント的な定言命法で表わすことができない。つまりは、一般化できない、特殊的なものであることだ。そこがおもしろいところである。例えば、誰に知られなくとも、陰で人の役に立ったらよいという陰徳は、これに該当しない。あるいは、誰の役にも立たない、無意味なことをパフォームし続けて次第に世に知られる、これはある意味で聖者型かも知れないが(聖者とはそういうものであろう)、これにも該当しない。

しかし、これは高いハードルだな。ふつうに何かすれば、知られるか、人の役に立つかということにはどうしてもなってしまうものだ。それが実現できる条件が揃うということは、ひどい苦痛とともに、逆説的だがよほどの幸運ということになってしまうのかも知れない。

いまにあっては、SNS にでもつぶやけば、投稿すれば知られてしまうし、ふつうにお金をもらって働けば誰かの役に立ってしまう。じつに容易で、誰でもできるし、実際に誰でもしている。じつに立派なことで、それはそれでよいわけだ。

いやいや、そんなに早く固定化してはいけない。繊細な思考を必要とする。なにせ、「やらねばならない」(定言命法ではないのに)のだからな。なぜそのようなものが存在してしまうのか。矛盾である。


結局、一切が失われても、世界だけは誰にでも与えられているわけだ。その意味で、存在は無根拠であるにしても、所与の世界は根拠たり得る。とすると、どのような世界が所与であるか、ということになるのではないか。だから、所与世界は関係性において貧しくあってはいけないのだ、本来は。
 しかし、我々はアトム化、断片化するがゆえに、貧しい所与世界に対して無力である。これは、論理的には正当化できない。まったく甘ったれとしかいいようがないからだ。そこのところだ、我々クズの考えねばならぬところは。

お昼はウチで高山ラーメン。肉屋で買ってきたチャーシューで、うもうございました。

岡崎武志的LIFE オカタケな日々〔41〕 | 春陽堂書店|明治11年創業の出版社[江戸川乱歩・坂口安吾・種田山頭火など]
okatake さん、いつも読ませるな。わたしは好きだ。


改装工事で一年間休館していた岐阜県美術館へ、家族でひさしぶりに行ってきた。「岸田劉生展」を見る。
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コロナ禍のせいか人がいなくてガラガラだったが、展示そのものは悪くなかった。人物画が力強い。劉生の日本画というのはよく知らなかったが、果物などおいしそうである。まあ、わたしの感想などはどうでもよいが、美術展はほんとひさしぶりで渇が癒えた感じ。
 所蔵品展もおもしろかった。何度も見た絵が多いけれども、わたしはもはや西洋画の方がピンとくる世代になってしまっていて、岐阜県美術館が収集しているルドンなどはとても好きである。県出身の熊谷守一のコレクションもおなじみで、晩年の作はとてもよい。新しい収蔵品のフジタもいいものだった。それにしても、繰り返すが人がいなかったのは残念なことである。ちょっと大きい展覧会だと、どこも人でいっぱいという時代になってきていたのにな。

早寝。