武満徹を読む / (西洋的)自我素描、「哲学」とは何か / 鷲田清一『メルロ=ポンティ』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第六番 BWV817 で、チェンバロはクリスティアーネ・ジャコテ(NML)。■バッハの無伴奏チェロ組曲第三番 BWV1009 で、チェロはイェルク・メッツガー(NMLMP3 DL)。

それそのものになり切るということ。それはよい。では、現代に特有な関係性の貧しさにはどう対処していったらよいのか。
あまりにも関係性が貧しいことからは逃げるしかないんじゃないのか。どうなのだろう。

スーパー。

昼寝。

ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー407円。『武満徹著作集1』を読み始める。収録されている「音、沈黙と測りあえるほどに」は1971年刊。武満さんの文章は、読んでいて不思議な感じがする。いま現在流通している文章は、言葉の意味が過不足なく使われている。明晰といってもいいかも知れない。武満さんの文章は、「詩的」といってもいいかも知れない。何をいっているのか、すぐには意味がとれない文章が多い。「曖昧」ということになるのかも知れない。あるいは「難解」。難解な文章は、いまでは無意味であるとされることが多い。難解とは、空疎・空虚であるか、あるいは過剰であるのか。そのいずれかであるかは、客観的には確定されない。武満さんの文章がそのどちらであるかもまた、同じく客観的には確定されない。わたしはこれらの文章を熱心に追った。本書所収の武満さんの文章にも、まさに同じことをいっているようなそれがある。意味が過剰である言葉は、「どもり」であると。そして、その「どもり」に武満さんは積極的に価値を見出している。音楽でも、同じことであると。
 結局、明晰である文章しかない現在には、難解なものは存在しないも同然なのだ。例えば「恋愛」すらも、明晰に語られる時代であるかも知れない。養老先生の仰っていたとおり、いまやすべてが意味づけされようとしていて、意味をもたないものは存在しないように一般に思われている。世界は「詩」とともに存在を始めたことが、忘れられている。もはや、詩人も存在しないも同然である。すべては明晰に意味づけ可能であるのだから。
 つまりは、世界は既にすべて確定的に分節化されており、既存の概念の組み合わせですべてが語り尽くされるという信仰が広く流布しているのだ。まさに、秀才たちの時代である。息苦しい筈だ。

武満徹著作集〈1〉

武満徹著作集〈1〉

岡本太郎の言ったような意味で、べらぼうなものが、ない。驚きが、ない。矛盾が肯定されない。わたしは貧しく、苦しい。

夜。
鷲田清一メルロ=ポンティ』読了。

メルロ=ポンティ 可逆性 (講談社学術文庫)

メルロ=ポンティ 可逆性 (講談社学術文庫)

鎧のように言葉で堅く守られた(西洋的)自我。それが鎧の一部を壊して臆病にも外へ顔を出し、外の世界を一瞥したあと、鎧の裂開した部分を急いで、以前よりも精緻にまた言葉で塞いでみせる。それが「哲学」というものである。
鎧の内部が「わたし」、外部が「自然」というわけである。また外部は、「無意識」という角度から眺められることもある。いや、あったというべきか。また、それは「狂気」*1と呼ばれることもある。あるいは、内部は「文明」、外部は「野蛮」であるとも。

*1:これは、「心の病」とでもとりあえず言っておくものと同じものではない。非理性のことを西洋では「狂気」と呼んできたのだ。