デモクラシーの多忙、アトム化した我々

晴。
ひさしぶりに(?)悪夢を見る。睡眠は掘るなあ。自分の人生の転機になったのだが、確かにいまでもどう考えてよいかわからないのかも知れない。いずれにせよ自分の全体と深く結び付いていて、そういうかほとんどそれそのもので、合理的な説明はなかなかにつかないのであろう。墓場までもっていくしかないようなものであるな。

このところ元気がない。自分の「人間的欠落」のようなものについてぼんやり考えたりする。これも、どうにかしてどうにかなるようなものではない。そんなものなら、考えるまでもない。ユング派の人たちの好きな「コンステレーション」という言葉が脳裏に浮かんだりする。さてわたしの場合、星座はどのように配置されているのか。

第23回 「人間の魂を揺さぶる」芸術の条件は何か | デモクラシーと芸術 | 猪木武徳 | 連載 | 考える人 | 新潮社

人間の精神はヤーヌスのように二つの顔を持っている。一方では、有限なもの、物質的なもの、役に立つものを求める。これはおおらかに肯定さるべき重要な欲求だ。他方、われわれの中には、無限のもの、精神的なもの、無駄とも見えるようなものを求めるという傾きがある。われわれが、冗談やフィクションを好むのはそうした欲求の例であろう。こうした人間精神の二面性のうち、どちらが強まるのかは政治経済体制(regime)に依存するところがある。

トクヴィルは、「条件の平等化」を基本原則とする民主制のもとでは、多くの機会を平等に与えられた人々は経済的厚生を求めて「競い合う」という点に注目した。激しく競い合えば、互いに他者を早くに抜きんでなければならないから自ずと人間は忙しくなる。この「多忙」という要素は、デモクラシーを特徴づける重要な要素である。デモクラシーのもとでは、ボーッと物思いにふけっている人間は珍しい。

ウェブには稀な深い論考だな。わたしは露伴の「私益公益論」を知らなかった。さすがに猪木先生だな。

機会の平等が与えられた近代デモクラシーの社会では、人々は経済的安寧が最も確実な幸福への道だと考え、経済的な成功を目指して競争する。すでに指摘したように、こうした競争によって誰しも自分自身の事柄に多忙になるため、相互に無関心となり人々は自分の世界に閉じこもるようになる。その結果、社会的な紐帯が弱まり、人々がバラバラのアトムと化して行く。

わたしもまたよく具体化された「アトム」のひとつに他ならない。もはや他との紐帯が弱まりすぎて、コンステレーションを構成しにくくなっているのかも知れない。こうなった人間の運命(?)とは何か。わたしの貧しい一生がそれを例示することであろう。いまのわたしには、まだよく見えないところである。
 我々の存在がアトム化していく理由は、猪木先生の仰るのは経済的競争→多忙→相互無関心ということだろうか。そのあたりはまだちょっと納得していない。東さんなどは「趣味のタコツボ化」といっていたが、まだこちらの方が納得できる気もするけれど。「趣味のタコツボ化」というのは、ポモでよくいわれた「大きな物語の消滅」の裏返しでもあろうか。ほんと、ネットがこんなに発達したのに、我々はどうして他人に興味がなくなったのだろう。ネット上にも、我々はじつは自分自身を見ているにすぎないのだ。というか、そもそもコミュニケーションとは何だ? そこまでいくしかないよね。少なくとも、我々は自分の「内面」に踏み込まれることを好まなくなっている、というか、恐れている。「内面」などというのは、本当は存在しないのに。
 他者。異物。気持ちの悪さ。むかつき。自分が傷つかないようなコミュニケーションは無意味だと、浅田さんはいったっけ。でも、コミュニケーションはそれだけでもない気がするし。というか、我々は何でそんなに心の膿を抱え込むことになってしまったのだろう。
 自分の「気持ちのよさ」だけに従っていくということ。仮にそれでいけないとすれば、何故なのか?

世界は無限の「意外さ」に満ちている筈であり、コミュニケーションはそのことの贈与ではないか。現在はその「意外さ」を縮減する方向に進んでおり、それは何はともあれ我々が阻止しなければならないことである。それだけは、わたしには明白だ。

曇。
昼からごろごろぼーっとしていた。


小野正嗣さんというのは作家・フランス文学者・大学教授だそうで、わたしはまったく知らないが、現在の朝日新聞文芸時評を担当している。いつもは読まないのであるが今日はたまたま目にしたところ、村上春樹新訳の『心は孤独な狩人』の評が載っていた。わたしごときのいうべきことではないかも知れないが、実際に訳書を読まなくてもぐぐれば書けるような中身のない評で、ちょっと呆れた。たまたま今回だけレヴェルが低かったのかも知れない。思うに、マッカラーズもあまり読まれないし、文芸時評はまして読まれないから、それで済んでいるのかも知れないな。ま、わたしにはあまり関わり合いのないことではありますけれども。

 該当の『心は孤独な狩人』評は、「そこに描出された第2次世界大戦前夜の不穏な<いま>が、僕たちの生きる<いま>を揺さぶるさまざまな問題と恐ろしいほど響き合う。」という、ほとんど何も語っていない曖昧模糊としたよくある紋切り型的文章*1で終わっているのであるが、それでぼんやりと思い出されてきたわたしのつまらない、『心は孤独な狩人』の読後感のひとつをここに書き留めておきたい。小野評の「さまざまな問題」には明示的に黒人差別も含まれているのだが、具体的にはもちろん BLM のことであろう。以下は小野評とは関係がない。
 わたしはこの小説を読んでむしろ、いかに当時と現在の状況がちがうかを思った。小説に描き出されている多くの黒人にとっても白人にとっても、差別はほとんど当り前のことで、それは「差別」と意識すらされない。変えられるものだとも思っていない。だからこそ、「進んだ意識」の持ち主である黒人白人ふたりの登場人物と、その他の「意識の低い人たち」のちがいは際立っている。彼らは渾身の「左翼的良心」をもって差別と戦うが、それはあたかも無駄のようであり、さらに彼らふたりすらたがいに相容れることがない。これは小説における悲しいシーンであるが、しかし、現在の BLM を見ると、じつは「彼ら」のしたことは無駄でなかったことがはっきりとわかる。え、だって、いまだって黒人は差別を受けているではないか、だから BLM なんだろといわれるかも知れない。しかし、決定的なのは、それが既に差別であると認定されており、その「進んだ意識」こそが理性的に「正しい」ことが明確であるのだ、いまは。黒人その他の人々の戦いは無駄ではなかった、ゆえに、いまでは差別する者たちは、自分たちがまちがっていることをはっきり意識しながら差別するしかない。追い詰められているのは、もはや差別する側なのであり、ゆえに暴力やポスト・トゥルース的発言に追い込まれているのだ。わたしはだから、「第2次世界大戦前夜の不穏な<いま>」が、「僕たちの生きる<いま>」と根本的にちがうことを意識せざるを得ない。わたしたちの居るのは、未曾有の歴史的段階なのである。ついでにいうなら、根強い「トランプ現象」、国民の「分断」もそこにある。

心は孤独な狩人

心は孤独な狩人

なお、こんなことは、もしこのブログを丁寧に読んで記憶してくれているような人が仮にいるならば、わたしが何度も繰り返している話だとわかる筈である*2。でも、そんな人はほとんどおるまいから、敢て同じことを繰り返した。以上は、お風呂でぼんやりしながら考えていたことでした。

*1:なお、小野評で特記されている「孤独」にも、何の説明もない。ズルいやり方だ。昔もいまもみんな「孤独」なんだ、うーん、深いといわれても、はあそうですかというしかないではないか。

*2:そして、わたしが理性の全面的制覇を必ずしも事祝がないことも、わかってくれるかも知れない。確かに理性はよい。しかし理性の全面的制覇には、ゆらぎがないのである。