西田哲学についてのつぶやき、モナドについて / 『西田幾多郎講演集』

晴。

5. 没イチ男性よ、おしゃれをして外に出よう! | 没イチ、カンボジアでパン屋はじめます! | 小谷みどり | 連載 | 考える人 | 新潮社
「ひとり暮らしの男性高齢者のうち、毎日会話がある人は49.0%と半数に満たないのはともかく、15%、つまり6~7人に1人は、二週間のうち一度も誰とも会話をしないという驚愕の結果が出ている。」「同性の友人がそもそもいない男性は33.6%もいた。」わかるなあ。わたしは没イチではないけれど、まさにこういう老後になるだろう。ま、それまで生きていればだけれどね。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第二番 BWV813 で、チェンバロはクリスティアーネ・ジャコテ(NML)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第三番 op.12-3 で、ヴァイオリンはクリスチャン・フェラス、ピアノはピエール・バルビゼ(NMLMP3 DL)。■ブリテンのカンティクル第五番「聖ナーシサスの死」 op.89 で、テノールはシリル・デュボワ、ハープはポーリーヌ・アース(NMLMP3 DL)。■ショパンのバラード第一番 op.23 で、ピアノはルーステム・サイトクーロフ(NML)。

Frederic Chopin Par..

Frederic Chopin Par..

 
ブラームスのピアノ・ソナタ第三番 op.5 で、ピアノはエレーヌ・グリモーNML)。うわー、グリモー若い。若きグリモーのフレッシュ、若きブラームスのフレッシュ、そして Denon の優秀な PCM録音のフレッシュが相俟って、とても気持ちのよいものになっている。この曲は長いのであまり聴かないのだけれど(どういう理由だ)、ブラームスはやっぱり若い頃からいい音楽を書いているな。何となく、op.10 のバラードを思い出させるところがあるように感じる。グリモーも、若い時からいいことを確認した。この人もちょっとちがうピアニストだな。 
わたしは大根の味噌汁が好きなので、いまの季節はうれしい。田舎者だなあ。

いい天気。昼から県営プール。
帰りにスーパー。


岩波文庫の『西田幾多郎講演集』の続き。感銘する。この「日本哲学」を代表するとも云われる有名な哲学者が、世界という書物を直接読むことのできる、つまりは本物の哲学者なのが、じつに嬉しい。もちろんわたしは能力不足で西田の言っていることの1%くらいしかわかっていない筈だが、それでもわたしにわかる限りはわかっているのである(当り前か笑)。これ以上なにもいうことはないといえばないのであるが、せっかくなので(?)非常に陳腐なことだけ書いておこうか。西田を読んでいると、まったく東洋と西洋の間に橋を架けようとした人だなあという感を深くする。あ、これは東洋に親しい考え方だなと思っていると、それが西洋的としかいえない概念と結び付いていく。あるいは、西洋的な概念、考え方を解明しようとしている。さて、わたしはアカデミズムにおける西田哲学研究などというものは何ひとつ知らないが、そういうところで例えばかかることをいったりすると、直ちに「東洋などというものがあるのか、いや、そのようなものはない。東洋というものは一種の仮構である」といわれてしまうのではないか。それは、じつはわたしも尤もだと思う。オリエンタリズム以外に東洋はないというのは、むしろその意味では至極正しいであろう。わたしはそれには反論しない。ただわたしが「西洋」というのは、概念と論理による理性的思考を指し、「東洋」というのはそれとはちがう別種の思考法であるといっておこう。なので、西洋人の中にももちろん「東洋」はあるし、その逆もまた正しい。大切なのは、かかる「東洋」が、いまや世界全体で力をひどく失い、概念と論理による理性的思考のみがますます重視されていくという事実である。日本においてもまたそうであり、いまの若い人たちの中にも「東洋」はあるにもかかわらず、それは否定されるべきものと強く見做され、バカにされているのである。これについてはこれ以上述べない。
 敢ていうなら、西田哲学というのは、そのような「東洋」にその基盤をはっきりと置いている。その意味では、東洋と西洋の間を繋ごうと必死の努力をしながら、深いところでは「東洋」に偏っているといわねばならない。これは、アカデミックな西田哲学研究では絶対に認めることのできない主張であろう。それは、わたし自身が「東洋」に偏っているゆえの錯覚であるのか。いや、たぶんそうではないと、わたしは思っている。西田の根は確実に東洋にある筈だ。

西田幾多郎講演集 (岩波文庫 青 124-9)

西田幾多郎講演集 (岩波文庫 青 124-9)

  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 文庫
西田の生涯は哲学に沈潜した静かなものであったように見えるかも知れないが、実生活では妻や子供を含む肉親を多く失っており、つらいものであった。時代もまた、全体主義と戦争に傾斜していった(西田哲学、京都学派と戦争協力についてはしばしば問題にされる)。確か彼は、「人生はトラジックである」というようなことを述べていたはずである。西田の哲学は、そのすべてを練り込んでいったものになっているとわたしには予想される。西田の伝はいろいろあるのだろうが、わたしは浩瀚なものは読んだことがない。『大拙と幾多郎』というのはおもしろい本だったな。また読み返してみたい気がする。

いまとなっては、概念と論理による理性的思考によって「東洋」を語るしかない。それが西田のやったことで、じつにほとんど不可能な試みである。それゆえに、我々は西田を読んでまさに感動させられるのであり、同時にどうしようもなく身につまされるのだ。


なお、この「講演集」の文章の中にライプニッツモナドの話があって、わたしがモナドについて勝手に考えていることが的外れでないことがわかって少しうれしかった。で、「モナドに窓はない」ので、それだと僕と君がコミュニケーションすることもできなくなってしまう、そこが問題というようなことを西田先生は書いておられる。で、そこでライプニッツは「予定調和」なのだそうで(それには西田先生は批判的である)、ははあ、わたしの無知にも程があるのであるが、さてわたしのオレオレ解釈であるけれども、ライプニッツさんもそんな「予定調和」は要らないと思う。むしろモナドには窓がないのだが、また個々のモナドはそれそのものが全世界なのだから、個々のモナドが他のすべてのモナドを(潜在的に)含むとすればよい。そうすれば、モナドに窓がない問題を回避できると思うし、実際に世界はそうなっているとわたしは考える。ただ、わたしというモナドの中に全モナドが含まれるわけだから、その含まれるところのモナドの内部にわたしというモナドもまた含まれるということで、論理的には矛盾という他ない。しかしわたしは、これが華厳のいう「重々無尽」のひとつの論理化であるといえると思っている。


図書館から借りてきた、『西田幾多郎講演集』読了。文庫解説は要点をよく抑えたまとめになっており、関連項目も付加されていてズブの素人のわたしとしてはとても勉強になるが、西田の「東洋的」な部分がきれいに脱色されてしまっているのが(それは当然といえば当然であるが)おもしろい。なるほど、哲学の専門家はこのように西田を読むのだなという気付きがある。西田における仏教や禅も、うまいことさらりと扱ってあって感心した。西田は矛盾というものを避けないが、このような解説では(これも当然であるが)矛盾もまたさらりとスルーされている。こうなると、西田哲学は西洋哲学の中にポンと置いて違和感がない。おもしろいものであるな。まちがったところはないというか、誰が読んでも「正しく」理解できる「西田哲学」がここにある。
 この解説にはベルクソンの名前がないが、本書の西田の文章中にはベルクソンがよく出てくる。その多くにおいては西田はベルクソンに対して不満も多く漏らしているが、また一方でベルクソンの独創性に賛辞を呈することを忘れない。そもそもベルクソンというのは西洋哲学の中ではかなり扱いにくい存在で、プラトンアリストテレス、カント、ヘーゲルといった流れと大いにちがうところに、ぽつんと存在する特異な哲学者である。わたしが敢ていうなら、意図せずして「東洋的な」発想に非常に近い考え方をすることになった哲学者だ。西田の発想にも近いところがあって、本書の時間論*1や生物学的発想(『創造的進化』に言及されている)は西田の賛辞(と不満)を受けている。わたしには小林秀雄ベルクソン読解もまた何となくここで思い出されるところがある。ドゥルーズなどもベルクソンを独創的に読解した人であるが、これは残念ながらわたしの能力を遥かに超えている。

*1:なお、本書解説における西田の時間論の要約は、わたしには全然わかっていないように見える。西田のまず強調したいところは、現在というものである。過去も未来もまた現在においてあり、現在においてしかない。ベルクソンが参照されるのもここである。解説のいっているモナド云々は、わたしには字面だけもってきて正しいように書いた、ほとんど寝言にしか見えない。まあ、こんなことはどうでもよいのだが。