ジョージ・オーウェル『あなたと原爆』

日曜日。曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第六番 BWV830 で、チェンバロはクリスティアーネ・ジャコテ(NMLMP3 DL)。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十八番 K.576 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。■ブリテンのカンティクル第四番「東方の博士の旅」 op.86 で、カウンター・テナーはポール=アントワーヌ・ベノス=ジアン、テノールはシリル・デュボワ、バリトンはマルク・モイヨン、ピアノはアンヌ・ル・ボゼック(NMLMP3 DL)。詞はT.S.エリオットということである。■バッハのトッカータ 嬰ヘ短調 BWV910 で、チェンバロはソロボダン・ヨヴァノヴィチ(NML)。

The Italianate Bach: At His Best, Pt. 1

The Italianate Bach: At His Best, Pt. 1

  • 発売日: 2020/10/23
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
いい天気。スーパー。今夜はこの秋最後のお刺身かな。これから寒くなってくるからな。
眠い。

冷笑することで、自分はかしこく、あちらはクズだと匂わせる作戦。わたしも使うけれど、あんまり好きじゃないな。こういうことをやる奴が、むしろクズなのだと思う。

小春日和か。畑に寝転がりたいくらいなのだが、さすがにしないというかできない笑。まだ蝶がいる。モンシロチョウ、モンキチョウに、シジミチョウ。ゴミ捨て場に何故かいま頃ミニトマトが二つ、成っている。肥やしなのか、ちょっとくさい匂いもする。


昼から米屋。
帰りに珈琲工房ひぐち北一色店。オーウェル評論集の続き。「ナショナリズム覚え書き」「イギリスにおける反ユダヤ主義」を読む。オーウェル、ほんと何者なんだ。オーウェルはここで狂信、偏見、差別、偽善等々を徹底して解体してみせるが、どうしてそんなことが可能だったのか。心底驚嘆する。オーウェルは自分のことをまったく語っていないが、狂信、偏見、差別、偽善は、もともと彼の中にあったものにちがいない。オーウェルは、まさに隗より始めたのである。この徹底ぶりは、そうとしかわたしには思えないのだ。オーウェルのいう「ナショナリズム」は、原型を留めないほど広い意味で使われている(「右」も「左」もお構いなしである)が、結局、そのようなものからすべて逃れられている人間などまずいないし、それはまた彼の指摘するところでもある。だから、これらの文章を読んで例えばチェスタトンはクズだというのはたぶんオーウェルの望むところではなく(まあ、チェスタトンに幻滅するのはよいことであるかも知れないが)、いま現在の我々の心をオーウェル流の剃刀で点検することが必要なのだろう。いや、ほとんど喫緊の問題であるのかも知れない。オーウェルは確かに昔の人であるが、まったく古びていないどころか、その静かな文章がますます底光りしてきているのを否定することはむずかしい。そこから文明が進んだように思えて、いまもまた狂信、偏見、差別、偽善の時代なのである。
 おもしろいのは、オーウェルの指摘するのは多くはインテリの話で、民衆はそんなバカげたことを信じるほど愚かではないとも云われていることである。わたしに何となく見えているのは、いまでは民衆がある意味「総インテリ化」してきていることだ。民衆はことごとく言葉の人になった。これが、啓蒙された民衆、つまりは「市民」の姿というわけなのだろうか。

ひとつの政治的立場を選択する。すると、その立場に固執することが何よりも優先するようになってしまい、事実に目を塞いで恥じない。それがオーウェルの指摘する硬直であるが、では、何も選択しないのがよいのか。オーウェルはしかし、インテリたるものは、という条件付きではあるが、むしろ何かを選択すべきだ、よりよい政治的立場はある、ということを主張するのである。これはわたしの能力を超える、むずかしい問題だ。そもそも現代においては、インテリに限らず、政治的立場を選択しないことはあり得ないという気もする。オーウェルの挙げている例を、文脈を無視して引用すれば、ナチス・ドイツも自国政府も選択しなかったフランスの平和主義者たちは、ドイツによるフランス占領後、多くがナチス・ドイツを選択することになってしまった。もっと我々に近いところでいえば、現代の若い人たちには政治に興味がない人も多いが、彼ら彼女らは消極的にかも知れないけれども、現状の政府与党を(なんとなく)支持することになっている。現代社会は民衆にも政治的立場の選択をほとんど強要する。ここでもまた、民衆の「総インテリ化」と関係している話なのである。


図書館から借りてきた、ジョージ・オーウェル『あなたと原爆』読了。秋元孝文訳。