ノストラダムス本について

曇。
10時間くらい眠る。苦しい。

朝起きてブログ「本はねころんで」さんを読んでいたら、五島勉ノストラダムス本について話題にしてあった。わたしは小学生の時だったか、父の単身赴任先だった大阪を訪れた際、その大阪のある商店街の(たぶん小さな)本屋さんで、この本を買ったことを記憶している。そして母が「あら、これおもしろそうね。あとでわたしにも読ませてね」と云った記憶があるのだが、まあ錯誤記憶かも知れず、もちろん老母はまったく覚えていないそうだ。いまでもその本の中身はうっすらと記憶に残っているような気がするのだが、そしてその「中身」はじつにどうでもよいものなのだけれど、わたしがそれから生きていく間、自分の人生は三十何歳で終わるのだろうなという感覚がずっとどこかにあったのは否めない。わたしは同級生に同じ感覚があるかかつて訊いたことがあるのだが、彼も「あるな」といっていた。一種の普遍的、時代的潜在意識であったというべきであろう。もちろん、我々以降の世代のサブカルにも、この感覚は非常に強く現れていて、「1999年に世界が終わる」というような設定のマンガ、アニメその他は掃いて捨てるほどある。北斗の拳AKIRAエヴァ、枚挙に暇がない。繰り返すがあの本の中身はどうでもいいものだったけれども、我々以降の世代の無意識にひとつの形を与えたものとして、ノストラダムス本は巨大な役割を果たしたというべきであろう。その意味で決して無視できるものではない。それはあの本のせいというよりは、そのように形を与えられるべき「無意識」が、先に存在していたものであろうと思われるし、似たようなそれは、1999年が無事終わり、新たなミレニアムに入った後のいまでも、消滅せず、また形も与えられず(realize されず)にいまだに存在しつづけているようにわたしには思われる。

晴れる。空が青い。

午前中、甥っ子の勉強を見る。
昼食は甥っ子と博多ラーメン「まっしぐら」にて。
午後も四時くらいまで勉強。駅まで送る。

これだけお勉強すると、頭が回転しすぎてハイになっている感じ。ずっと大学入試の数学をやっていたのだが、高校数学レヴェルでも、整数論にはむずかしいのがあるな。ってまあ、それほどのレヴェルではないのですけれども、わたしももう忘れているし、まあわたしはそれほど頭もよくないからね。昔はお勉強できましたが、何の役に立ったものやら。ま、多少のたずき(「たつき」よりもこちらが正しいのかな)にはなっていますかな。

しかし、いまの日本人は随分と「知的」にはなったけれど、もう少し(というか、もう「だいぶ」)深い感情があるとよいと思うのだが、わたしの傲慢だろうか。ネットを見ていたりすると、深い感情が理解されていないなと思ったり、何だか底が知れるようななにが多すぎるなと思ったり。ま、自分を棚に上げるものではないか。

そういうところで、吉本さんや中沢さんが常に(レヴェルの高すぎる)先達だったし、これからもそうだし、だから好きだ。感情こそが彼らの「知性」の本領なのだ。小林秀雄の『本居宣長』の通奏低音もそれだと思う。それは、西ヨーロッパ的な犀利な知性からは理解できないことであろう。というか、知性と認定されない。


何か気が滅入るので、ブログの過去記事の一箇月あまりを読んでみたら、おもしろいし、結構いいこと書いてるじゃん(笑)。自画自賛だ。誰も読まないブログだから、自分くらいは読んでやらないとな。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノはルドルフ・ゼルキンNML)。かつて CD で繰り返し聴いた録音。(ゼルキン晩年のライブ録音ゆえの)数多いミスタッチまで、そっくり覚えていた。しかし、NML の仕様上、終楽章の各変奏の間にしばらくの空白が入るのはひどい。NML に入れる際に楽章全体を1トラックにすべきで、これはまったくのやっつけ仕事である。なのだけれども、こんなひどい扱いをされても、演奏はまさに不朽の名演というしかない。この曲はわたしにとって(知る限りの)全クラシック音楽中でもっとも特別なそれであるが、その演奏として最高のもののひとつであろう。

Beethoven/Brahms: Incomparable

Beethoven/Brahms: Incomparable

武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」で、琵琶は鶴田錦史、尺八は横山勝也、指揮は小澤征爾サイトウ・キネン・オーケストラNML)。小澤征爾には武満さんの全オーケストラ曲を録音してもらいたかったが、まあそういうことにはならないのだろうな。わたしは小澤信者なのだが、日本人でそういう人はあんまり見ないよね。どちらかというと、小澤征爾はけなしておいた方が音楽がわかっているように見えるのだとも思う。そんなレヴェルの低い話ではないけれど、わたしがよく思い出すのは「小澤征爾は世界レヴェルというにすぎない」という浅田さんの言葉だ。でも、じつをいうとわたしはこれはよくわかるので、わたしもかつてはまったく同様に思っていた。小澤征爾も、それから武満さんも、わたしの耳に入ってくるようになったのはまだここ何年かのことであることを白状しておこう。武満さんなんかは、「その凄いこと」はわかるのだけれど、自分の血肉にしたとまではまだ到底言えない。わたしなんかのレヴェルを、武満さんは遥かに超えているのだ。まあ、バッハもモーツァルトベートーヴェンも、そうなのはそうなのだけれどね、当り前か。先日読んだ小澤征爾村上春樹の対談集によると、メシアンは小澤さんに惚れ込んで自分の全オーケストラ曲の録音を頼んだのだが、メシアンはあまりにも大変なので「トゥーランガリラ」あたりだけでごまかして(?)きたらしい。何という残念な! あと、小澤さんはカラヤンの弟子なので本領はドイツものなのだが、録音はフランスものが多いのはレコード会社の都合だったとか。本人が仰っていたが、まあそんなものなのだろうなあ。昔、小澤征爾はフランスものが得意といっていた「評論家」もいたっけ。