人工世界を「カイゼン」していく日本のアニメ / 川端康雄『ジョージ・オーウェル』

雨。

現代におけるアニメがわたしという特殊な人間の既存のフレームを破壊するのに結果的に非常に役に立ってしまうわけだが、いまの世代(さて、どこからを指すのか、既にわたしの世代も入るのか)にとっては逆に、アニメ(も含めた、商業的な「物語」の仮想的な総体)が既存のフレームになってしまっているのはまちがいない。つまり、あまりにもフィクションの世界が大きくなりすぎて、それにどうしようもなく縛られてしまうということがあるわけだ。これはなかなかに厄介だな。なお、海外で日本のサブカルが愛されているのは、わたしのアニメへの接し方にむしろ似ているのではないかと思う。

しかし、日本のアニメやゲームは根源的には何から「流出 emanatio」しているのかな。もちろんそれに答えられるほどわたしは現実を知らないわけだが。例えば徹底して人工化する世界を「なめらかな」ものにする、一種のアンチテーゼとして機能しているところはあるだろう。つまり、先鋭化するモダニズムに対する抵抗としてである。世界の人工化は已むことがないから、アンチテーゼもまたどんどんと進展していく。しかしそれはまた一方で耐え難い人工性を緩和・「人間化」し、人工世界をさらに完成されたものにする「共犯者」ともなってしまう。そして、高度資本主義はさらに進んでいく…。
 というのは、そういう理解でいいのかなあ…。ちょっと考察が浅くないか。
 都心の超高層タワーマンションジブリのアニメを見る、とか。何だろうな。ま、ジブリでなくともいいんだが。

あらゆるネガティブなものが注意深く取り除かれた世界で、子供たちはどう育っていけばよいのか。もはや、そのように育った世代が社会に出ているし。ま、でもこれは凡庸な問題意識ですね。ネットでは既によく指摘されている。

東さんの言っている「動物化」っていうのはどうなのかな。むしろ逆なんじゃないのか。我々はみずからの動物性、「生ぐささ」をどんどん脱臭している気がしてならない。動物的な衝動にも、負の価値が貼り付けられるようになってきているように思える。それで、抑圧に起因する内圧をすごく溜め込んでふくらませている。それを開放(解放?)するアニメとかゲーム、ってのはまあわかりやすいか。一方で、最初の話に戻って、それらが同時に既存のフレームを作り出してもしまう、と。マッチポンプ*1。一方を開放して、一方で抑圧する。性から解放されて、コミュニケーションで抑圧する、とか。

男女の差もあるだろうな。生物学的には女性の方がみずからの「動物性」を意識することが多い(=大地と繋がっている)から(ジェンダー的偏見?笑)、たぶん男性ほどアニメとかによって「性から解放」されないよね。「王子様」と出会うことを望む女性は、いまでもふつうにたくさん存在するのではなかろうか。一方で、現実の女性がどこか「生ぐさく」感じられる男性は、これもまたいまやたくさん存在するような気がする。

さても、わたしは「腐女子」の方々はわからないなあ。このあたりがわたしの限界。

あー、朝からバカみたいに書きすぎた。家事しよ。
いっておきますけれど(誰に?)、わたしはアニメを見ているときは、別に何にも考えていませんよと。

昼から雨が上がったので、ウチの外をぶらぶらする。

シコンノボタン。




たぶん、ゼフィランサス
雨が上がったせいか、この季節なのに蚊にぶんぶんたかられて喰われた。かゆい。


岩波新書の『ジョージ・オーウェル』(川端康雄著)を読み始める。オーウェルの評伝。第六章まで読んだ。感銘を受ける。少しの涙なしには読めない。
 オーウェルは学生のときに多少読んだ。たぶん開高健経由であり、本書を読んでいて「正直オーウェル」とか、開高の文章が浮かんできて仕方がなかった。本書でも活写されているが、オーウェルというのは複雑な人である。徹底的に考える人は(逆説的なことに?)しばしば矛盾に引き裂かれたりするが、その複雑さが却って正直さとシンプルさに帰結することがある。わたしには、オーウェルはそんな人に思える。わたしは英語の勉強と背伸びのゆえにオーウェルのエッセイ集と『カタロニア賛歌』をペンギン・ブックスで読んだが、中身はいまはあまり覚えていないけれど(でも、傑作「象を撃つ」は鮮明に覚えている)、少なくともエッセイ集はそんなにむずかしい英語ではなかった。そしてわたしは、オーウェルらしいのは、エッセイ集だといまでも思っている。本書を読んで、いろんなことが思い出されてきた。ただ、そうは書いたけれども、わたしはまだ読んでいないオーウェルの小説やルポルタージュを、いまや読んでみたくもなった。つまり、『動物農場』(開高による翻訳もある)と『一九八四年』以外の著作である。『カタロニア賛歌』は、かつての自分が全然読めていなかったのがわかったので、これも読み直したい。
 もう一度書いておくけれど、オーウェルは複雑な人である。わたしはオーウェルと自分を比較するなどというつもりはないけれど、オーウェルの複雑さと正直さは、何となくわかる気がするのだ。でも、わたしにはオーウェルの勇気はないのであるが。

 
図書館から借りてきた、川端康雄『ジョージ・オーウェル』読了。よい本だった。わたしはオーウェルの死んだ年齢を既に越しているのだな。
 わたしはオーウェルを「聖人」と見做すのは好まない。複雑な人物が、どうして「聖人」たることがあろう。オーウェルは、人生は生きるに値する、それはふつうの人間なら誰でも知っていることだ、という考えの持ち主だったそうだ。わたしは生きることは基本的に苦痛であるとは思うが、人生は生きるに値するというのも確かにまた正しいとも思う。しかし、そんなこと(人生は生きるに値するか)はどうでもよいことなのではないか。人生が生きるに値しようがしまいが、我々は苦痛な生を生きるしかないのだ。それは、当り前のことである。時には楽しいことだってあるし。それがわかっているのが、大人というものだと、わたしは勝手に思っている。と、あまりオーウェルとは関係のないことを書いたが。本書を読んで、本当にオーウェルが読みたくなったな。

*1:後記。ここでの議論はちょっと混乱しているな。