こともなし

日曜日。雨。
深夜二時頃いったん目覚める。光。

起きて新聞を読んでいたら、コラムに河合隼雄先生のジョークが載っていた。昨日の今日でシンクロニシティというほどじゃないけれど、朝から河合先生に会えてうれしい。

箱庭療法」は考えなしにやると危険なのでクライアント以外とはやらないそうであるが、河合先生がつい「魔が差して」武満さんとやってしまったら、武満さんはやっぱりすごいのを作られて、河合先生は感激したそうである。どんな箱庭になったのだろうな。ちなみに、心が「病んで」いない人の箱庭は、概して全然おもしろくないものらしい。それが、「健康」の証拠なのだな。

わたしは思うのだが、我々は誰でも深いものをもっているのだけれど、深いところが表に出てくる人というのは、どこか(その人にとって)しんどいところがあるな。だから単純に深ければいいというものではないね。偉大な芸術家とか、他人のために前もって苦しんでくれているようなところがあったり。

洗濯。スーパー。
昼飯は冷やむぎ。うまかった。

曇。
カルコス。うーん、たくさんの人が来ていた。コロナ禍に本屋さんは希望があるのかも。むずかしそうな本を手にしている若い人もいたしな。
 
新刊の『石川淳随筆集』を読み始める。澁澤龍彦編。元本は彌生書房刊。

夕食はさしみ。鰹のタタキ、タイ、シメサバ。

第3回 沖縄で新聞記者になるということ|地方メディアの逆襲|松本 創|webちくま(1/3)

かつて自分の近くにいた、いかにもありふれた人間たちが、沖縄を標的にフェイクやヘイトをばらまいている。そのことが私には情けなく、ショックであると同時に、フェイクやヘイトの本質とは、こうした「普通の」人間に巣くう卑小な悪意や無関心の総体ではないかと感じるのである。

これはわたしもそうだと思う。所詮、えらい「文化人」「知識人」たちはあまり関係ないのだ。我々ふつうの人間の「卑小な悪意や無関心」こそが問題なのである。もちろん、我々は全身全霊で(かつ沖縄人に恥ずかしくない仕方で)「沖縄問題」にコミットするわけにはなかなかいかない。少なくともわたしは、そこまでできるえらい人間ではない。しかし、沖縄にはそもそも昭和の戦争で、本土のために完全に捨て石にされた過去がある。多くの民間人が不必要に死んだ、あるいは殺された土地である。それを考えればより尊重されてもおかしくないのに、現実は過重な負担を強いられ(いまだに「敗戦後」が続いているともいえるだろう)、フェイクやヘイトに晒される、そこのところの構造に気をつけるくらいのことは、我々にも可能だ。
 それにしても、在京メディアの記者たち自体に、既に沖縄を蔑視する構造があるとは、わたしには驚きだった。まさか、そこまで(敢ていうなら)腐っていたとは。できればもう少し、そのあたりに意識的でありたいとわたしは思っている。
 しかし、東京とはいったい何なのだろうな。わたしには、地方を牛耳っている「外国」という気がして仕方がないことがある。東京こそが日本なら、我々の住んでいる「地方」とは、いったい何なのか。地方にだって、人間は住んでいるのだと、いいたい。
 東京を介さない、地方同士の連帯などということは、可能なのだろうか?

ちょっと正義を語ってしまったっぽいな。うまく言えなかった。まだまだ未熟である。