高橋英夫『濃密な夜』

晴。
早起き。さほど眠れなかったが、悪い気分ではない。朝食を食いながら、老父が面会のことなど訊いてくるので、原則禁止だが、何か届け物があるということで顔を見てきたらといっておく。やはり心配なのだな、当り前か。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。■バッハの無伴奏チェロ組曲第一番 BWV1007 で、チェロは古川展生NML)。

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全集

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全集

  • アーティスト:古川展生
  • 発売日: 2014/10/22
  • メディア: CD
 
理事無碍法界を消化し切って事事無碍法界に常住する(と言うのは正確さを欠くが)人は、一見全然すごそうには見えない。でも、じつはこういう人がすごいのだし、本当に滅多にいない。

睡眠。意識は局在であり、リミッターでもあるが、睡眠はそのリミッターを外し、精神の本来の働きを開放する。その活動を可視化するのが夢。しかし、では脳は何なのか。何故脳に拘束されるのか。

少し蒸し暑くなってきた。庭を見ていると、いつもどおり、何か小さな蝶もアゲハチョウもハグロトンボもいるなと。植物もいっぱい茂っている。

(しかし、である。ぼーっとしているだけのわたしだが、何という時代を生きているのかと。我々の世代のサブカル的想像力に「1999年にデカいのが来る」という妄想があったが。いまのコロナ禍だけではない。全体主義的とすらいいたくなる、管理社会の不可避。生の全領域の経済(学)化。格差の拡大。合理性にがんじがらめになって生きている一方で、フェイクニュースとヘイトの時代。インターネット。わたしが中高生を生きていた80年代には、こんな(暗い)時代を自分が生きようとは思いもよらなかった。あまり大きすぎる問題にとらわれても仕方ないのだけれど。とりあえず、洗濯しますか。)

洗濯、物があまりにも少なすぎるのでサボる(笑)。
老母より Skype 通話あり。動けないし痛いそうだが、声は元気でだいぶ話した。Skype はチャットも意外と便利だな(LINE とか使っていないので)。

雷鳴。雨。
昼食は焼きそば。


TSUTAYA長森店にてマンガを借りてみる。
曇。車外は28℃なので、これまでよりも10℃近く涼しい。

夕食はデカい冷やっこ、オクラのチーズ焼き、キュウリとキムチとツナのサラダ。何かめちゃシンプルな飯になったけれど、まあ食べられました(笑)。

図書館から借りてきた、高橋英夫『濃密な夜』読了。文学者の音楽論集。おおよそのところではここに記した感想を出るものではない。こういうコクのある「時代遅れの書」を楽しんだのはひさしぶりという感じがする。直接は音楽に関係のない、「忘却の女神への讃」や「『退屈』讃」などは、静かな感銘の気持ちが起きるのを覚えた。泡沫文学者が、文学史に残されながらも読まれないという意味で忘却されるどころか、わたしのそれのようないまですら誰も読まないブログの忘却を思ったり、わたしも音楽の「退屈」を好んでいて、強く我が意を得たり。わたしは音楽をヘッドホンでぼーっと聴いていることが多く、そもそもアナリーゼのように分析的に聴く能力はきわめて乏しいし、音楽を聴いて何がなんでも「感動してやろう」という構えもない(でも、何でこんなところにという箇所に、強く感動したりすることもある)。ついでにいうと、わたしはある意味で「退屈な」本も好きなところがある。あんまり刺激の強い本は、浅さを感じることが少なくない。もっとも、「浅さ」というのがよくないものなのか、それもむずかしいところだが。
 わたしは思うが、いまの知的な読書家なら、浅田さんが「小林秀雄の貧しさは、日本の貧しさだ」といったような意味で、本書に貧しさを感じても不思議ではあるまい。そして、わたし自身、そういう意味で自分をさらに「貧しい」とも思っている。わたしは翻訳で外国の本を読み、CD・ストリーミングで偏った音楽を聴くだけの田舎者だからだ。わたしは本書の背後にある「豊かな教養」に感銘を受けるが、それはいまの人たちのネット的集合知にまったく敵わないだろう。ツイッターの140文字、はてブの一行で何でも一刀両断される時代である。本書がゆったりと音楽を論じるのは、それとはまったく正反対の仕方だ。時間をかけて教養を消化していった末の「魂の豊かさ」とは、じつに時代遅れではないか!