こともなし

晴。

朝イチで米屋。肉屋。
運転しながらぼーっと昨日ブログに書いた文章を思い出していて、自分の考えの足りなさが出ているなと思った。「ひきこもり」の人にも発達障害の人にも、あまりよく思ってもらえない文章な気がする。まあこれは文章の技術の拙さというものもあって、それは考えの足りなさと関係があるのだが、「文章の技術」ということをぼーっと頭の中で転がしていた。わたしは、思ったことをそのまま書けば文章になるとかいう考えは有害な幻想であると考えている。例えばわたしは感情の基本、むしろいちばん基本的な感情という方がよいかも知れないが、は「かなしみ」のようなそれだと思っているが、こう言ったって、伝わる人には伝わるし、そうでない人には伝わらないだろう。そこいらをあっさり書くか、技術の秘術を尽くして書くかは、その人によるし、また場合にもよるだろう。いずれにせよ、言葉で何か伝えようと思ったら、ある程度の「技術」が必要であるようだ。
 でも、へんな話だが、わたしはまたいわゆる「うまい文章」は何故か苦手なところがある。例えばいわゆる「ライター系」の人の文章は、なんとなく言葉に対してスレた感じがあって、読みやすいが苦手なことが多い。でも、okatake さんのような例外もあるので、ライターだからといって決めつけられないが。また、うまい文章といっても、林達夫の文章はじつにうまいが、こういうのは好きだ。氏はちっとも書かない人で、林達夫ほど文章の上手い人が書かないのはつらいだろうと澁澤龍彦は言ったが、そのとおりだったろうと思う。ちなみに林も澁澤もスタイリッシュなレトリシャンだったが、わたしはこういうタイプが好きだった。これはわたしの基準だと、あるいは「文章のうまい人」には該当しないのである。花田清輝とかもそれだね。いまでは、完全に絶滅したタイプの書き手である。
 吉本さんなんかはまちがっても「うまい文章の書き手」には分類されないだろうな。浅田さんは、「吉本隆明はわからない」といった。それから、小林秀雄は、曖昧模糊としたハッタリ的悪文の典型といわれ、いまでは特に若い人たちにひどく嫌われている。小林秀雄は文章(の生き死に)に文字通り心血を注いだ(それこそこれはレトリックではないといいたいくらい)人であり、わたしは若い頃小林の文章をじつに繰り返し読んだが、いまは一般に忘却されている。それを好ましいことだとか、ザマーミロと思う人も少なくないだろう。無理もないことである。さて、中沢さんなんかは、レトリシャンと見做す人もいるし、悪名の高い人ですが、わたしは適切な語を適切に使うという意味で、現在文章においてもっとも正確さを重んじている人だと考えている。わたしが好きな文章家が、こういう悪名の高い人たちであるというのは、まあわたし自身の問題(?)をあからさまにしているのだろうな。
 ブログというのはおもしろい場所で、緊張感をもって未知の場所へ切り込んでいく文章が書けるところである。少なくとも、わたしにとっては。それで、いかに自分の幼稚さが自分に明らかになったか知れない。それだけ成長できたところも少しはあるのではと自分で勝手に思っているが。自分のようなつまらない平凡人には、なかなか他にない場所になっている。こういう場所があるだけでも、感謝したいところだ。

昼から図書館。
ドラッグストア。ついでに家族の分のアイスクリームを買う。

ソードアート・オンライン」第14話まで観る。
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なんだこの終わり、納得できん……と思ったら、まだ続くのか。

ソードアート・オンライン」第19話まで観る。
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