江藤淳的「文学」の核心 / 石田英敬『記号論講義』

晴。
一種の悪夢を見るが、これは必要な対応だ。深い冥い森そのものにテーマパーク(?)が作られているというか、廃墟というわけでもない、しかし全体はまったく見通せず、すぐに人とはぐれてしまう。モノクロームの世界。荒れた木立がはびこる中、草木をかき分けてあちこち歩き廻る。それにしても、こんな領域で苦しんでいるとは自分の鈍才を思うが、しかたがない。抽象的で、どこか幼稚な領域。


石田英敬記号論講義』を読み始める。記号論は、すべてのメッセージが感情を喚起することを強調しないな。我々が電子的なコミュニケーションに喜んだりむかついたりするのも、それがゆえであるのに。その意味において、すべての記号は「感情」をまとわりつかせているといってよいだろう。
本書では、「間主観性アポリア」はフロイトラカン的な無意識で簡単に処理されているだけで、あとはほとんど触れられていない。しかしこのアポリアは、すべてのコミュニケーションの前提に存在する。
透明なコミュニケーションは世界の明晰な分節化が前提とされるが、それは幻想である。個々人における世界の分節化とラングの間の齟齬と「間主観性アポリア」の間には深い関係がある。カオスモス
記号論もまた、透明で明晰なコミュニケーションたり得ない。如何に象徴の体系が動的に組み換えられていくかということ。ラングというのは、一般意志のような仮想的な極限に他ならない。現実にはラングは存在せず、存在するのは個々のパロールのみである。

西洋近代の最良の部分を認めるということ。そして、それを自家薬籠中のものとし、可能ならばそれを乗り越えること。つまりは、いわゆる「追いつき、追い越せ」の意思。それが江藤淳的「文学」の核心であったとしたら。もしそうならば、いまやそれが忘却されるのもよく理解できることである。そして、かかるものから外れた、日本的近代文学の別種の展開が再評価されることの意味もまた。

山口昌男的な意味でのエレガントな「敗者」というものを、もう少し検討し直してみる必要があるかな。ちなみに、「追いつき、追い越せ」的な意思が達成されたと錯覚されたがゆえに、江藤淳的なものが希薄化した八十年代という時代に自己形成したわたしは、どういう位置にあるのか。そこからズレてはいるが、やはりその延長線上にあったというべきであろう。いまは、「敗者」的日本の時代である。一方で、「西洋近代の最良の部分」もいまや砕け散った。不気味なのは、高度資本主義の展開と日本的サブカルの想像力である。それは極端な合理性を飲み込み、モダンを忘却して生を再組織化しようとしている。すべて人工物で取り囲まれた、徹底的に管理された世界。


酷暑。コンビニでカップのバニラアイスを三つ買ってくる。ウチで採れたすっぱいブルーベリーの実を載せて皆んなで食う。高級アイスみたいだった。

石田英敬記号論講義』読了。

藤原彰『餓死(うえじに)した英霊たち』を読み始める。「この戦争で特徴的なことは、日本軍の戦没者過半数が戦闘行為による死者、いわゆる名誉の戦士ではなく、餓死であったという事実である。」(p.9)ここでの「餓死」には、不完全飢餓による病死も含まれる。読んでいると、悲しみよりはむしろ怒りを感じずにはいられない。現地の事情をまったく知らずに、兵站というものをほとんど考えずに、大本営の作戦が立てられている。精神力で空腹が満たせるか、馬鹿野郎。銃剣突撃で機関銃と重火器による弾幕を突破できるか。制空権なしで兵力が移動できるか。兵力の逐次投入という、バカバカしいほどの初歩的な誤り。そして、大本営の無謀な作戦の立案者たちが、責任を取らない。現在の日本人は、ここからどれだけ変わったのだろうか。
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