河出書房新社『南方熊楠 開かれる巨人』 / 園田高弘対談集『見える音楽 見えない批評』 / 『ウンベルト・サバ詩集』

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001 で、ヴァイオリンはユヴァル・ヤロン(NML)。

Bach: Sonatas & Partitas Vol 1

Bach: Sonatas & Partitas Vol 1

  • アーティスト:Yaron, Yuval
  • 発売日: 2000/10/02
  • メディア: CD
ベートーヴェン交響曲第三番「英雄」 op.55 で、指揮は朝比奈隆大阪フィルハーモニー交響楽団NML)。2000年7月8日のライブ録音。
ベートーヴェン:交響曲第3番

ベートーヴェン:交響曲第3番

  • 発売日: 2000/10/25
  • メディア: CD

図書館から借りてきた、河出書房新社南方熊楠 開かれる巨人』読了。いわゆる「ムック」みたいな本。熊楠をアカデミズムに回収しまいというような意志が編集に見えて、なかなかによかった。もちろんアカデミズムは熊楠の「正確な評価」と「脱神話化」をなそうと虎視眈々しているわけであり、それはそれでやればよいが、そもそも熊楠自身が何よりのアカデミシャン、アカデミズム嫌いであったのは何度でも強調しておいてよいことである。アカデミズムは秀才の場所だ。我々はもちろん天才などでないつまりはバカであり、バカはどうあがいても何の意味もないが自由だけが取り柄である。天才・熊楠を我々は勝手に読んだらよいのである。というわけで、ということもないのだが、本書では特に澁澤龍彦花田清輝(天才たちだが)の小文がおもしろかった。柳田国男の熊楠追悼文には、こちらも思わずホロリとさせられた。そういや、柳田民俗学も、既にアカデミズム化してしまったのかな。とクズがいう。

南方熊楠: 開かれる巨人

南方熊楠: 開かれる巨人

  • 発売日: 2017/11/27
  • メディア: 単行本
よく、熊楠はあれほどの実力の持ち主だったのに、紀州の片田舎に逼塞して「正当に」評価されず、気の毒だとか残念だとかいう人がいるが、言いたいことはわかるけれど、熊楠自身はそんなことはさほど気にしていなかったにちがいないと思う。熊楠にとっては、知られる、「正当に」評価されることよりも、自由のほうが遥に大切だったにちがいない。わたしはそれを確信している。自分の「業績」が残ることすら、第一の大事ではなかった筈である。

空が青くなってきた。秋近しか。

昼から珈琲工房ひぐち北一色店。駐車場の空きが少ないくらい人が来ていた。老母は「(コロナ)大丈夫なの」というが、そんななら行かないようにするしかない。
ピアニスト・園田高弘の対談集を読む。1986年草思社刊。わたしは園田を2018年に NML (Naxos Music Library)で「発見」し、一時期ハマっていた。誰も園田っていわないので義憤を感じていたこともあったが、いまでは日本人の耳というのはそんなものなのだろうと傲慢にも考えている。まあそんなことはよくて、さてまずは、武満さん、諸井誠(作曲家)、村上陽一郎科学史家)との対談を読んだ。どの対談でも論じられていることは深刻な話なのだが、園田さんは意外と落ち着いている感じが印象的だった。まあ、自分に対する自信もあるのだろうと思う。諸井誠さんなどは非常に絶望的で、園田さんはおいおいという感じなのだが、現在から見ると諸井さんの危惧は完全に現実化していると思った。わたしは NML では大スターではない、どちらかというと「ふつう」の、というかまあ雑魚みたいな(失礼!)演奏家を中心に聴いているのだが、なかなかつらいことになっている。一言(?)でいうと、西洋の音楽家でも、さすがに個性はあるが、伝統はめちゃくちゃに壊れているし、聴き手のこちらも既に伝統的な、コクのある演奏は受け付けない体になってしまっているというか。まさに末期的症状であるが、(こちらもあちらも)もはやどうしようもない。もう、伝統にも回帰できないし、新たな総体的美が生まれているわけでもない状況で、個々人の聴き手がたまたま自分にフィットする演奏だけを聴いているという、東さんのいう「島宇宙化」が、(日本のサブカルにおいてだけでなく)クラシック音楽の世界でも進行しているというのが現状だと思う。……しかし、絶望したって時代は進んでいくので、そこは晩年の武満さんのように、希望をもつしかないというところであろうか。徒(いたずら)に絶望したって、どうなるものでもないし。

園田さんとはあんまり関係ないのだが、わたしは「吉田秀和の功罪」ということをよく考える、というか感じるようになった。吉田秀和さんはもちろん不世出の大批評家で、その文章にはわたしも大変にお世話になったものだが、さて、吉田さんは文章の上では、西洋の一流音楽・音楽家の、つまりエリート的上澄み部分を正確に批評し、それを啓蒙するという活動を生涯かけてやられたと思う。わたしは現実の吉田秀和という人は、上澄み部分だけでなく、それこそピンからキリまでクラシック音楽についてはそのほとんどをよく知っていたと考えているが、文章では上からの「啓蒙」ということを外れることはまずなかった。けれども、いまではそのやり方では現実が引っ掻けなくなっており、そういう時代が来つつあるところで吉田さんが亡くなられたのは、吉田さんにはたぶんよいことであっただろう。園田さんと敢て関連付ければ、吉田さんは日本人作曲家・演奏家については、わずかな例外を除いてほとんど批評されることはなかった。なかなか、むずかしいところであるな。

図書館から借りてきた、園田高弘対談集『見える音楽 見えない批評』読了。


図書館から借りてきた、『ウンベルト・サバ詩集』読了。須賀敦子訳。