量子力学と「イマージュ」 / 柴崎友香『ショートカット』

深夜起床。
夢。家族で架空のある国立(民俗)博物館を訪れる。大きな現代建築で、何故か大理石(?)の巨大なスライダー(すべり台)があり、家族で乗り込んでみる。すごい滑空感。何か魂が軽くなっていた感じ。

「中心と周縁」という考え方は、言葉で構築された明晰で有限な世界にダイナミズムを持ち込む仕方としては、結局はここに行き着くことになる。これは資本主義と恐らく同型であり、限りない柔軟性をもち、また明晰で有限であるという点で極めて息苦しい世界だ。浅田さんの『構造と力』も、まったくこの枠組みの内にあり、ここに到達してしまうと、あとはクリティックの反復しかなくなるという彼の(意図された)人生が帰結する。浅田さんのいわゆる「逃走論」は予定調和的な「中心」を敢て明示的に求めない戦略であり、それが人口に膾炙した「スキゾ・キッズ」の生き方であるが、それは結局は世界の有限性と外部からの力の侵入が念頭に置かれた単純なニヒリズムである。やはり最初に「中心と周縁」理論が前提にあるのは隠しきれない。(結局、「知」の理論というのは、その「中心」の扱いをどうするのかというのにすぎないであろう。あるいは、第三項的な「トリックスター」に注目するか。)
 量子力学は、非局所性、つまり世界のあらゆる部分は関連しあっているということは表現している。しかし、どのような細部にも無限が内包されているというのは、量子力学でたぶん表現されていない。物理量をあらわす「行列」(マトリックス)は無限次元をもっているが、それは加算(countable)無限であり、これを非加算無限に置き換えたオペレーターによる力学を作らねばならないように思える。ここでのオペレーターには非可換積が定義されねばならず、その積は(要素の)非可算無限個の写像同士によって(恐らく一意的に)定義される非可算無限個の(写像の)写像によって構成されねばならない。…ただ、そのような数学はわたしの構想力を遥かに超えている。

ベルクソンの「イマージュ」。それは非加算無限個の「イマージュ」を内包する「集合」であるともいえるのかも知れない。ポストモダン哲学は基本的に有限の世界であり、言葉による構築の世界である。そこでは象徴界が決定的に重視され、想像界は凡庸なものとして退けられた。
「イマージュ」同士の非可換演算。つまり量子力学の先にそれが必要なのであろう。想像界を扱う数学。

雨。
20200803064332
AM06:42。自宅にて。

曇。
十一時過ぎに昼食。焼きそばを作る。

母検査。
帰りに肉屋。


図書館から借りてきた、柴崎友香『ショートカット』読了。短篇集。出版は2004年なので、もうだいぶ前のことだ。主人公はすべて大阪の若い女性で、大阪と東京の「遠距離恋愛」に関係している。で、いまここに一緒にいる男の子との、ささやかな時間がすごく大切というお話。何だかわたしにはもう遠すぎて、まるでわからなくなってしまった世界だ。でも、ささやかな日常が何よりも大事という感覚はこの著者に一貫していて、そこは共感できる。さて、本書の出版から既に16年が経った。柴崎友香は、いまどんな小説を書いているのだっけ。わたしは知らない。

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