自由⇒生命の軽視

曇。

東さんの「ツーリズムには誤配(自由)がある」というのはまあいい。かなり逆説的だが、というのは、つまりは「ツーリズムにしか誤配(自由)がない」という主張に限りなく近いからだ、それは。それはここでは措くけれども、本来は日常生活に無限の自由(誤配)がある筈である。例えば、「仕事」にも無限の自由がある筈だ、本来ならば。「社畜の楽しさ」というものはそれであろうが、現実には「仕事」に無限の自由がなくなってきている。現代とはそういう時代だ。「仕事」がイヤでたまらないという話が、ネットに溢れている。ルーチンワークと管理。自由の縮減。またここでも、高度資本主義社会というものを考えざるを得ない。

でも、わたしは「会社」というもので働いたことがないのだよね。だから、あるところは想像力でしかわからない。

高度成長期の社畜のおっさんたちには、やはり仕事に誤配(自由)があったのではないか。

「誤配=新鮮な驚き」みたいなものだよね。

家族に希望があるというのも、例えば子育てには無限の驚きがあるということだろうけれど、でもいまや子育ても強く管理されつつあるのは明らかだ。でも、これもわたしは、わたしには子供がいないのだよねえ。自分で実感できない。

しかし、「ツーリズムには誤配がある」というのは、かつての日本の「(我々にとって)西洋には誤配がある」とか、西洋の「(彼らにとって)東洋には誤配がある」というのとあまり変わらない気もする…。まあけれど、ツーリズムで我々人間ひとりの一生分の誤配を得ること(差異の獲得)は可能かも知れないから、それでよいのかも知れないな。留学と同じようなものだ。管理における偶然性。つまりは「広く世界を体験しよう!」ってことだ。そこには偶然性の亀裂があると。じゃあ、皆んなツーリズムしてるから、何の問題もないじゃん。

そのうち、ツーリズムも完璧に管理されないとはいえないかも知れないけれどな。だって、「偶然性の亀裂」とはすなわちリスクだから。つまりは、リスクを受け入れる思考(指向)が必要なのである。

しかし、「リスクを受け入れる思考(指向)」というのは、必然的に「生命の軽視」ということになる。つまり、論理的にいえば、自由はリスクであり、「自由」⇒「生命の軽視」というところまで、いかざるを得ない。「リスクを受け入れる思考(指向)」が支配的なイデオロギーとなることはまず無理なことであろう。ここが、我々の考えるべきところである。いまのところ、ここは隘路になっている。つまり、管理社会は(このままだと)必然である。先は見えない。

結局、「管理社会で何が悪いのか」ということになるのだよね。つまり、自由(誤配)なんていらないと。あるいは、管理された誤配という、矛盾。なんだ、たんにSF的「ディストピア」が、「本物のユートピア」だったという話じゃん。しかし、それで話は済むのだろうか。わたしは、済まないと予想する。誤配なしで生きるのは、人間にはつらすぎる。管理社会を完成させるには、誤配を管理配分するしかないだろう。管理された偶然性(ブーレーズ)。なるほど、それが東さんのいう「観光客の哲学」なのか(勝手に決めつけている笑)。ちょっと再読してみないといけないな。

ま、わたしにはツーリズムはほとんどどうでもいいのですけれども…。

例えばツーリズムはリスクを呼び込むのだけれど、人命が失われるかも知れないようなリスクは排除されないといけないのだよね(命の危険があるような「観光」は、もはや観光などではない)。すると、やはり「管理された偶然性」ということになる。しかし、まあそんな面倒なことをいわなくてもな。観光は楽しい、ちょっとトラブルはあるかも知れないが、それだけのことであり、それだけのものである。それで充分、それ以上を求めてはいけない。

ほんとに「管理社会」、面倒くさいな🙄


かつては東洋の方により自由があった感じなのだが、いまは逆な気がする。「自由」を是が非でも守らないといけないと思っているのは、むしろ西洋だ。
 鈴木大拙の『東洋的な見方』を読んでいると、隔世の感を覚える。大拙は、リバティもフリーダムも、東洋的な意味での「自由」とはちがうと言っている。「ほんとうの『自由』は有限的次元から無限的なところに横超しなくてはならない。」東さんのいっている「誤配」も、いま日本でふつうにいわれている「自由」も、この大拙のいう「有限的次元」のものに他ならない。イデオロギー化した西洋の「自由」もそうだが、まだ日本の状況よりはマシな気がする。

老父の PC の Windows 10 回復ドライブを作成する。早く作った方がいいと進言していたのだが、ようやくです。