二重の原生的疎外

深夜起床。

人間というものは入力を何重もの(言葉の)フィルターでブロックしていく傾向を、その本来の時点でもっているということだ。吉本さんは「人間の二重の原生的疎外」ということを仰っているそうだが(読み直してみないといけないな)、さて、(人間以外の)動物はどうなっているのか、わたしごときにはどうもよくわからない。少なくとも動物には「二重の原生的疎外」はないようだ。人間の本来的傾向から、それは時代が進んでいくごとに強くなり、言葉によって生ががんじがらめになってゆく(それが、「社会の発展」の別名だ)。しかし、それをいけないことだと言ってしまえば、極端なアナーキズムに陥ってしまうしかない。そして、「昔はよかった」ということになってしまう。いや、ある意味ではそれはどうしようもなく正しいのだが、そんなことを言っても仕方がないのでもある。しかし、高度資本主義というのは、得体が知れないところがあるな。我々は袋小路に陥っているのであるが、ここまで歩いてきて、もはやどうしようもない、これ以上何ともすることはできないし、そんなことはどうでもいいと、浅田さんのような「マイルドな(明るい)ニヒリズム」で、少なからぬ人はやっているわけだ。けれども、強い人はそれでよいけれど、自分たちが陥っている状況に気づかず、ただただ生きづらいだけという(若い)人たちは、それでいいのか。我々は終点まで歩いてきましたよ、まあこんなものらしいですよで、済ましてしまって? わたしはそれではいけないと思い込んできたけれど、余計なことをするなという人が多いのではないかと、ふと思ったりする。却って、怒りをかったりしてなあ。

サブカル」的な子宮の中でまったりとまどろんでいたい、邪魔すんな、そういうことかな。現実なんか、見たくない。見ても、どうしようもない。ただただ、生きづらい。それかな。

中沢さんのいう、「インターフェイス」の問題だ。我々は外部とどのようなインターフェイスを作り上げていくのがよいのか。現代における、難問中の難問であり、それはまだ探索が始まったばかりのところにある。現実としては、世界は徹底的に人工化されていっているし、それはむしろ肯定されている。人間が拵えたもの以外の入力を極端にカットし、人工物がループする強固な構造が出来上がりつつある。それが(つまり高度資本主義であり)、究極の「管理社会」の肯定に他ならない。「サブカル」的想像力の温床である。「サブカル」は、果たしてそれを突き抜けることができるのか?

もうひとつ、東さんのいうがごとく、「家族」は救世主になり得るのか? わたしにはそれはまったくわからない。妻も子供もいないから。管理社会と家族、か。高度資本主義は、家族を崩壊させずにおけるのか。現実として、若い世代になるほど結婚せず、結果的に子供も減っているという事実がある。さても。いや、たぶん国家は生殖を「強制」するようになるだろう。管理社会の必然だ。「国家は存続せねばならない。」SF的世界。


吉本さんの『心的現象論序説』をざっとひっくり返してみたが、「二重の原生的疎外」という用語はないようだ。つまり、言葉による疎外ははっきりとは指摘されていないようである。しかし、「言葉による疎外」と言ってしまってはいけないのかも知れないが。まだわたしはそこまで理解していない。

 
しかし、管理されたって生のささやかな喜びも悲しみもなくなりはしないのだろうな。さて、それでいいのか知らないというか、わからなくなった。余計なことを考えて、どうなる。生きづらくたって、そんなこと知るか。かな。マイルドな(明るい)ニヒリズム。そうやって我々はダメになっていく。

雨。

フィッツジェラルドを読み始める。

夕方、散髪。さっぱりした。

夕食。市販の「麻婆茄子の素」を使って麻婆茄子を作ってみる。多少味が濃かったし、ピリリと辛いところもあったが、まずまずだった。それから、ポテトとベーコンを炒めた(?)料理を作った。これは以前にテレビで見たもの。

早寝。