関川夏央『人間晩年図巻 1995-99年』

深夜起床。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第一番 BWV1046 で、指揮はフィリップ・ピケット、ニュー・ロンドン・コンソート(NML)。

ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番 op.69 で、チェロはルイス・クラレット、ピアノは岡田将(NMLCD)。■ブラームスの弦楽五重奏曲第二番 op.111 で、ヴィオラはラファエル・オレグ、シネ・ノミネ四重奏団(NMLCD)。■スカルラッティソナタ K.121, K.122, K.123, K.124, K.125 で、チェンバロスコット・ロスNML)。

曇。

図書館から借りてきた、関川夏央『人間晩年図巻 1995-99年』読了。感銘を受けた。名著といったら言いすぎとされるかも知れないが、滅多にないレヴェルの本だというのは明白だ。これは伝記・評伝の類とするには一人あたりの分量が少ないし、やはり文学という他あるまい。一見、ゴシップ的記事の羅列かとも見えるが、文学にはゴシップの昇華としての側面があり、つまりは人間への興味ということになると思う。わたしがここでいう「文学」とは江藤淳的な意味というか、そもそも日本語で「文学」というのは江藤淳が明らかにしたそれに他ならないとわたしは思うのだが、その江藤淳の記事も本書にあって、特に印象に残った。愛妻を失った江藤を、沛然たる豪雨が自死に追いやるのである。この記事では吉本さんが登場人物に配されていて、著者にしては意外な感じをわたしは受けたが、吉本さんの江藤に対するリスペクトというか、配慮というかには、二人の対談集(文庫本)を読みもしたわたしは納得するところがあった。わたしは吉本さんと同じで江藤と政治的立場がちがうのだが(もっともわたしの政治的立場など大したものではないけれど)、江藤の文学的才能には敬意を払わざるを得ないものがある。というか、そんなエラソーなことをいわなくても、江藤ほどの人がいま読まれないのはとても残念な気がするというあたりである。全集も出ていないことを、先日確かめて知った。しかし、江藤が本書を文学として認めたか、まあわたしには自信がないのも確かだけれどね。丸谷才一に対してもニセモノ扱いをしたくらいの人だから。本書中にも、松浦寿輝への受賞スピーチで、松浦への批判しかしゃべらない江藤の姿が描かれている。しかしいずれにせよ、いまはそこまで誰も文学に自分の全人格を賭けたりしないのである、極端にいえば。
 わたしには、本書の短い「あとがき」に、関川の思いが強く篭っているように思われた。1995年から99年というのは、日本のひとつの転換期だった。しかしそのことを、多くの人たちはたぶん恐ろしさから、見て見ぬふりをしてやりすごした。その見て見ぬふりはいまでも続いているが、いまの日本の姿はその自業自得である――著者はそこまでは言っていないけれど、「あとがき」を読んで、わたしにそんな思いがこみ上げてきたのは確かである。

人間晩年図巻 1995-99年

人間晩年図巻 1995-99年

わたしは本書をあまり堅い本に描きすぎたかも知れない。ふつうに読んで、おもしろい本ですよ。「寅さん」の渥美清の俳句のよさに驚いたり、若くして病死した天才棋士村山聖のはかない生涯に涙したりしました。関川さんが誰を選ぶかというのも、なかなかに興味深いことである。

書くか迷ったのだが、少しだけ。河野防衛大臣の「イージス・アショア配備撤回」についてネットでも既にいろいろ言われているが、わたしは「核攻撃に対する安全保障上のリスク評価」といったことにほとんど興味はない。自分に意見がないことはないが、つまるところ専門家が考えればよいことである。しかし、「日本(人)のアメリカ拝跪」という構造を考えると、この「撤回」に興味がないとは言い切れないというのが正直なところだ。河野大臣の決断はもちろんこのことを視野に入れているわけであるが、よくもあの安倍首相が許可したなあと少し驚いている。当然アメリカ(のどこか)は激怒するであろうが、しかし日本の政治家と官僚と学者に、構造の変化をもたらす覚悟があろうとはわたしには到底信じられない。日本国民も同じことである。結局はアメリカに平身低頭し、河野大臣はどうかなっちゃっておしまいになるのではなかろうか。そうでない、つまりこれが大きな一歩になるということであれば、日米関係そのものの構造が変わってしまい、日本人のある分野の考え方が根底から変わることになる。これこそが、「戦後レジームからの真の脱却」であることはいうまでもない。当然ながら、「安全保障上のリスク評価」なんつーものも激変してしまうことになる。さて、実際どうなるのだろうか。